リエージュ攻城戦

リエージュ攻城戦

リエージュ攻城戦

リエージュ攻城戦

リエージュ攻城戦

ドイツ軍の作戦はシュリーフェンプラン(改)に基づいて、進められた。第一の関門はリエージュだった。

ヤツらは来た

ドイツの雑誌に戦時中発表されたもので極めて珍しい。場所は特定されないが、ベルギー領内というキャプションがついていたという。ピッケルハオベに木枠背嚢だが部隊マークは確認できない。

8月4日国境を突破したドイツ軍はそもそもベルギーが抵抗するものと予測しなかった。このため先頭となってベルギー領内に入った騎兵部隊は「遺憾ながら領内を通過せざるを得ないが、戦闘を行う意志はない。橋梁やトンネルの破壊は敵対行為とみなす。」というビラを配布してまわった。そしてベルギー国旗をひきずりおろし代わりに王冠に鷲のドイツ帝国旗をかかげた。

しかしこんな事で住民が納得するはずもなく、ウーラン(ドイツ槍騎兵のこと。モンゴル語に由来するといわれる。)が来た。フン(民族大移動の原因をなしたアジア系の部族。イギリスではこの時、ドイツ人に対する蔑称。一般にはローマ帝国に属さなかった民族全てをさすようである。)が来た。というささやきが、あっという間に広がった。

国境突破の知らせがベルギー政府に到着すると、憲法の定めによりアルベール国王が王国軍の最高司令官となった。アルベールは直ちに対ドイツを念頭におき、とりわけリエージュの防衛強化の指令を出した。

一方、参謀本部、参謀総長セリエールは従来からの動員計画に固執したから、開戦へき頭からベルギー軍は大混乱に陥った。国王=総司令官の命令と参謀総長のとは一致せず、リエージュの軍の配置も常駐の後備部隊−高齢兵以外は全く決まらなかった。

さらに一般的にリエージュはヨーロッパを代表する要塞であると信じられていたが、実態は長い間、放置されており価値は疑わしかった。1880年代、最も著名なブリアルモンの設計により、分派保塁方式の要塞として作られた。設計思想は町の周囲を砦で囲み、比較的広い面で防御を行うというものであった。砦の間は塹壕や有刺鉄線で結び、砦の火力と砦の間の防御部隊で敵を撃退するというのである。

リエージュの町自体はムーズ川に面し、川はほぼ南北に貫流している。町をとりまいて大小12の砦があり、一つの砦に約400人の守備隊が配置されていた。要塞砲は最大21センチでオランダ国境からルクセンブルグ国境のドイツ正面をカバーしていた。だが実際は砦間の樹木の伐採は8月2日に始められたばかりで、鉄条網は敷かれたものの、塹壕は完成していない。ようやくリエージュに集結が終了した歩兵第3師団が守備に当たる事、と国王の指名によりレーマンのリエージュ要塞長官兼第3師団長への任命が決められた。

対するドイツ軍は左翼を構成する第1軍(クルック)第2軍(ビユーロウ)第3軍(ハウゼン)がベルギー領内通過を予定していた。シュリーフェンプランでは右翼から旋回しパリ方向に向かうことになっていた。このため最右翼に位置する第1軍(クルック)がもっとも長距離の行軍を余儀なくされ、ために事実上ペースメーカーの役割も果たす事になる。

リエージュ要塞

リエージュの攻略は、第2軍(ビユーロウ)から6個旅団・6万人を抽出し、エミッヒを司令官とする臨時軍団が編成された。

                               エミッヒ

8月5日夕刻からエミッヒ臨時軍団は三手に分かれ東から各砦に夜襲をかけた。準備砲撃の後、歩兵の銃剣による突撃にうつった。しかし結果は惨澹たるもので、第1波第2波第3波と攻撃しても砦からの機関銃射撃でなぎたおされ、死体の山を築くだけだった。
この感覚の麻痺した殺戮が開戦劈頭で始まっているのに驚かされる。

この時ルーデンドルフは第2軍の参謀長代理を務めていた。そしてエミッヒ臨時軍団と第2軍本部との連絡将校の任務で、中央を担当する第14旅団と行動を共にしていた。ルーデンドルフは1904年から1913年まで参謀本部で動員課長を勤めていたが、開戦時はヘーリンゲン前陸軍大臣と衝突し隊付将校となっていた。なおこの時ルーデンドルフはシュリーフェンと小モルトケの二名の参謀総長につかえ、とくにシュリーフェン・プランの改正に参画している。

ルーデンドルフの市内一番乗り

ルーデンドルフはvonが名前になく、もともと西プロイセンの商人の息子である。大戦後半期にはほとんどドイツの独裁的権力を握るに至る。リエージュでの勲功が階段の第一歩であるが、あとで現れる戦場での無感覚といえるほどの勇気と政治現場での愚かといえるほどの狼狽・無知という二つの同居がすでにここで見られる。

    ルーデンドルフ

8月5日の深夜になり砦への夜襲が失敗したことが明白となった。そしてルーデンドルフは第14旅団長のウッソウの戦死を知らされる。ルーデンドルフは直ちに第14旅団の指揮をとることにし、8月6日払暁攻撃を実施した。これまでの砦への直接攻撃でなくフレロン砦とエベネー砦の間を抜け、リエージュ市の中心に向かう方針をとった。

奇妙なことに両砦から砲撃を受ける事なく、歩兵同士の交戦のみで午後には、リエージュ市を見下ろす、ムーズ河畔に到達した。砦を抜けたのはしかし第14旅団だけで全く孤立していたが、直ちに市内にむけ砲撃を開始した。これはルーデンドルフの初陣であると同時に予期せぬではなく予期しきった敵中突破だった。

ここでルーデンドルフは奇妙かつ卑劣な策略を考え出す。その日の夕刻、イギリス兵士に変装させた6人の将校を市内、ルサントフォイにあったベルギー軍本営におくりこんだ。混乱に乗じて司令官のレーマンを暗殺しようとしたのである。司令官室の次の間にいたレーマンの副官マルシャンは刺客たちの変装を見破り、「ドイツ兵だ」と叫んだ。刺客たちはマルシャンを殺害したものの他幕僚の逆襲にあいその場で全員射殺された。この策略は当時のいかなる道徳を以ってしても許されるものとは思えない。

ルーデンドルフのこの奇妙な同居は、後年1923年ヒットラーのミュンヘン一揆の際、オデオン広場での警官の一斉射撃にたいする見事な不動揺、またタンネンベルグ戦でみせるレネンカンプ軍近接の際のあわてぶりと歴史の節目で発揮される。1918年9月を考慮すると更に不気味なものを感じる。

矢印はルーデンドルフの進路

この事件の後、レーマンは第3師団総撤退の決断をくだし、自らも市内から北西にあるロンチン砦に移動した。レーマンはアルベール国王の意図をよく承知していた。国王の率いる軍がたとえどんなに小さくても国土の片隅にでも残り、敵に対して抵抗をつづければ、ベルギーは併合されることなく独立を全うできる。第3師団はその中に残らなければいけない。レーマン自身は最後までリエージュに踏みとどまり敢闘し玉砕するつもりだった。そしてレーマンの期待どおり、戦争と歴史は進行した。

一方ベルギー軍大本営のあるルーバンでは参謀本部を中心に楽観論が支配し、ルーバンからドイツ軍右翼にたいし攻勢をかけるべきだとの極論が出てきた。

ベルギー領内通過予定のドイツ第1−3軍は34個師団であるのに対し、ベルギー軍はわずか6個師団にすぎない。この時、エミッヒ臨時軍団が第2軍の各師団から抽出されたものであったため、各旅団ともことなる師団のマークをつけていた。このためベルギーの情報部は攻城軍を二倍に過大評価していたにもかかわらず。

アルベールはさすがにこの案を一蹴し、フランス大統領ポアンカレに援軍派遣を要請した。アルベールはすでにシュリーフェンプランの概略を了知しており、もしフランスが対抗できる兵力を派遣してくれば、ブラッセルの前面でドイツ軍右翼と決戦を構える覚悟だった。

ポアンカレと陸相のメシミーはこの援軍要請に好意的だったが、参謀総長ジョフルは否定的で、自ら作ったプラン17を変える気は全くなかった。すなわちドイツ軍右翼を無視し全力をまずアルザス・ロレーヌ方面に向けるというのである。そしてジョフルはこの計画の詳細を文民政治家に知らせようとしなかった。

ジョフルは代案としてベルギー軍はナミュール方面に後退し、そのままフランス軍左翼につくこと、すなわちイギリス遠征軍と並ぶことを提案した。

これはアルベールにとり受け入れることができない提案だった。ナミュールまで後退することは国土の過半を失う事を意味する。アルベールは逆の方向のアントワープに全軍を集結し抵抗することを決断した。このアントワープ抵抗作戦は意図とは違ったが最後の海への延翼運動の過程で連合国に大きく寄与することになる。

8月7日、リエージュは前日からツェッペリン飛行船による爆撃と第14旅団の間断ない砲撃にさらされた。ルーデンドルフは敵の抵抗がないのを見て、副官を一人のみ連れ、市内に乗用車でのりこんだ。すでに前夜半までにベルギー軍が撤退した後だった。市の城門はわけなく越え市長より降伏の申し出を受けた。が、ルーデンドルフは更にまわりすべての砦の降伏も要求した。これはさすがに市長に権限が軍には及ばないと、断わられた。

42センチ砲

ここに至りルーデンドルフも力攻めはあきらめ、用意してある攻城砲を用いることにした。

42センチ砲

日露戦争の旅順攻囲戦で日本軍の使用した28センチ臼砲の威力に影響され、ドイツ参謀本部はリエージュとナミュールの攻城戦を予期し、秘密裏に42センチ(!)の巨大臼砲をクルップ社に作成を命じていた。更に小モルトケは手回しよくオーストリアのコンラート参謀総長からスコダ社の30.5センチ臼砲も一時貸借の許可を得ていた。

クルップの42センチ砲は同社のエッセン工場にありそこから鉄道で運ぶことになる。しかしベルギー軍はリエージュ周辺の橋梁・トンネルを含む鉄道施設を破壊していたため、ベルギー領内は28頭の馬で曳かせるはめとなった。スコダ30.5センチ砲は分解して運べるように計されておりチェコからでも輸送は容易だった。

8月12日ついに砲撃が開始された。
この42センチ砲というのは仰角45度でおよそ上空1200メートルまで約600キログラムの砲弾を打ち上げそれから落下するというものだった。発射から炸裂まで60秒かかった。徹甲弾が地上にあたった時には、きのこ状の噴煙がまきあがったという。

ビッグ・バーサ

ポンティセ砦を第一の目標としたが翌日まで45発の砲撃を行い、ほとんど跡形なく破壊され歩兵部隊が難なく占領した。そして8月14日までに東側と北側の全ての砦が占領された。
その日ペースメーカーであるクルックの第1軍がリエージュの北側を通り進軍を開始した。小モルトケの予定より2日遅れだった。

そして42センチ砲は市内を通過して南部・西部の砦の砲撃に向かった。この砲にはこの頃から実用化された駐退機がついていたため、ただでさえ巨大な砲身がまるでゴムまりのように見えたらしい。最後に残ったのはレーマンのたてこもるロンチン砦だった。

砲撃後のロンチン砦

8月16日快晴、ドイツ軍は再度降伏の使者を送ったがレーマンは拒絶した。砲撃が開始され運悪くその中の一弾が砦内の弾薬庫に命中した。
たちまち炎と煙りが巻き上がり、砦は完全に原形をとどめず破壊された。
ドイツ軍兵士がこわれたハッチをあけて中の通路にはいり、死体とおぼしき瓦礫に埋もれたレーマンを発見した。しかし老将軍は死んではなく気を失っていただけだった。

甦生後、エミッヒの前に連れてこられたレーマンは、「負けた。剣は貴様にやるからカバンによくしまっておけ」といった。エミッヒはこれに対し「武人の名誉は守られなければならない。そのまま持っていてほしい」と、答えた。まだ19世紀の貴族的な将校としてのやりとりがこの段階ではまだ残っていた。



(Anon) Military Operations of Belgiam, London,1915
Pirenne,H., La Belgique et la Guerre Mondiale, Paris, 1928
Essen,L.van der, The Invasion and the War in Belgiam from Liege to the Yser,London,1917
Schindler, O.D., Eine 42cm. Morser-Batterie im Weltkrieg, Breslau, 1934