ルーデンドルフの作戦計画
1917年の西部戦線の冬は、比較的穏やかだった。雨雪がすくなく、塹壕内は以前の3回の冬よりすごしやすかった。いつもの夜間のパトロールと小競り合いを除けば、毎日何事もなく、すぎていった。
アメリカは1917年4月に連合国にたち参戦したが、本格的な西部戦線への参入は、第一陣が1918年5月と見込まれていた。西部戦線を除く全ての戦線は総称して東方(イースタン戦線)と呼ばれていたが、パレスチナを除けばどこも落胆にあたいした。
ロシアは革命で脱落した。イタリアはカポレットー戦に敗れ、英仏が部隊を派遣することでなんとか連合国にとどめている状態だった。
東方は落胆だが、イギリスは過去3年間の膨大な損失にもかかわらず意気軒昂だった。フランスはあきらかに消耗していたが、敗戦が何を意味するか知っていた。
中央同盟国では、ロシアに勝利したことで、奇妙なことが起きていた。オーストリアとトルコが戦意を喪失してしまったのだ。両国とも主敵はロシアであり、英仏ではない。ロシアに勝ったことで、帝国としての存続はともかく国家としての存続は確保した、と指導者層は思った。両国とも裏で分離和平を追求した。
ドイツは、単独で西部戦線において英・仏・米の三国に当たらねばならない。
ドイツ兵は西部戦線でもよく戦っていた。1917年、英仏は合計145万人の損害をうけたがドイツは85万人にすぎなかった。西部戦線にドイツは300万人の兵員をはりつけていたから、これは軽微といえるかもしれない。戦死者は30万人を越えない。参謀本部次長ルーデンドルフの防御優先戦術は効果を発揮したといえるだろう。
ところが、これには意外な付随効果が伴った。1918年初頭のドイツ兵は約半数が開戦時(1914年)から戦っていた。英仏における、この比率は1割以下にすぎない。ドイツ兵は経験では他を圧していた。しかし、戦いに疲れていた。
ロシアの脱落により、東部戦線に配置された44個師団、250万人の西部戦線への移動が可能となり、早くも1917年11月から実施されていた。西部戦線全部で、ほとんど充足されていた192個師団が配置された。他方、連合軍はベルギー6個師団、アメリカ6個師団、ポルトガル2個師団を加えても161個師団だった。
そのうえアメリカを除いて、英仏とも定員にたいし18%不足していた。すなわち、ドイツは総量で35%ほど上回っていた。しかし、この優位はアメリカ軍の来援とともに消え去ることが予想された。
ルーデンドルフは妥協による講和を拒否しつづけた。正確に言えば、現戦線を新たな国境線とする休戦しか念頭になかった。英仏は少なくともベルギーの回復を前提にしたから、これでは妥協による平和はなりたたない。そしてこれから1年後、ルーデンドルフは、退却により戦線が後退するとベルギーを問題にしなくなった。戦争(勝敗)はともかく、政治(妥協)には無能な男だった。
要するに、ルーデンドルフは、条件には興味なく、ただ勝利か敗北しか念頭になかった。ルーデンドルフは戦争の職人にすぎない。おそらくこの時点で、大半のドイツ国民は、ベルギーの独立・領土保全を認めて講和したとして、なんら異議はなかったろう。まさにこの1917年の冬がドイツにとり名誉ある和平の最後のチャンスではなかったか?また実現すれば、おそらく第2次大戦はなかったか、違う形をとっただろう。
1917年11月11日、ベルギーのモンスでドイツ参謀本部の会議が開催され翌年の春季攻勢が決定された。出席者はルーデンドルフとその幕僚だけで、参謀総長ヒンデンブルグはおろか首相ハートリング(数日前ミハエリスと交代)やウィルヘルム二世も出席していない。ドイツは完全に軍部独裁国家に成り果てていた。
ルーデンドルフは、いままで連合軍の将軍が夢見て果たせなかった、大突破を今度こそ実現できるものと信じた。そしてその後には完全勝利が待っていると・・・。
国内で高まる交渉による和平に、最近反対の態度を示しているウィルヘルム二世に敬意を表し、ルーデンドルフはこの作戦をカイザー戦と命名した。
ルーデンドルフは、しかし、新戦術の取り入れに意欲的だった。突破を果たす手段として、浸透戦術を採用した。これは第8軍司令官フーチェルが昨年9月リガ攻略の際もちいたもので、フーチェル戦術と呼ばれていた。基本はブルシロフが用いた戦術と同一だが、一点狭正面の突破に利用する所が違う。
ルーデンドルフの1918年1月25日付け訓令=将来の攻勢に関して
エリート部隊
攻撃第一陣を担う強襲部隊を形成するために、エリート部隊が編成された。まず全員プロイセン人からなる近衛3個師団、歴戦の勇士といわれるハンノーフェル・ジブラルタル師団、イエーガー(猟兵)アルプス師団、キンダーモルト3個予備師団(第1次イープルの戦いで、イギリス軍のま表にたち玉砕した大部分学生からなる志願兵部隊、直訳すれば「無垢なる子供の死」)等々だった。
前年から、前進壕の守備は2線級部隊が担当し、敵軍の夜間パトロールが来てもすぐ第1線の塹壕は退くようになっていた。数も一時の三分の一以下で、イギリス軍が得意とした夜間の拉致にあっても情報が漏れないようにした。
強襲部隊とそれにすぐ続く予備部隊(直協部隊)だけで、100万人に達する前線への移動だった。更に前進壕には、この100万人が一泊できるだけのスペースが作られた。また各種砲兵隊も敵砲兵隊をたたけるまでの距離まで前進する必要がある。
強襲部隊の指揮官として、北方集団軍にルプレヒト(バイエルン王国王太子)、南方集団軍にウィルヘルム皇太子が司令官に任命された。北方集団軍には第17軍(ベロウ)と第2軍(マルウィツ)が南方集団軍には第18軍(フーチェル)が属した。
ブルフミューラー大佐の砲術
イギリス軍の情況
相対するイギリス軍はフランス軍から受け持ちの前線を譲られ守備範囲を拡大していた。第1次攻勢において、ルーデンドルフの設定した攻撃正面には第5軍(ゴウ)が守備することになるが、ここもフランス軍から冬期譲り受けたばかりだった。
首相ロイド=ジョージは総司令官ヘイグの第3次イープル戦での大量の被害にショックを受け、徴兵軍をフランスに送らず国内に留めていた。これのあおりでほとんどの師団が定員を充足せず、極端な場合は充足率が75%の師団があった。
イギリス軍大戦後期の陸軍の編成
イギリス軍はすでに前年からドイツの春季攻勢があることを予想していた。そしてドイツ軍の100万人の前線移送は兆候があり、攻撃が近いことも分っていた。だがどこで、いつかという点は最後まで分らなかった。このため偶然だが、北部に兵を多く貼り付けていた。第5軍は弱体化したが、フランスと隣接していたため危急の際はフランス軍の応援が期待できた。ところがフランス軍もむしろ東部が危険とみて、部隊を移送中だった。第5軍正面はルーデンドルフのヒンデンブルグ線までの後退作戦で遺棄された場所だった。このため、放棄したところを再度とりにくることはないだろうという判断もあった。
第1次攻勢(作戦名 ミヒャエル)
ゴウ
1918年3月21日、6000門の集中砲火を5時間だけ浴びせた後、ドイツ軍は幅40マイルの正面で一斉攻撃に移った。砲弾の多くはガス弾でジフェニール砒化塩素を主力にマスタードガス、ホスゲンガスなど多様な毒ガスが使われた。だがガスによる効力は初期にくらべれば、減少していた。また強襲隊もガスマスクをつけねばならないから、同様に行動が制限された。
初日でイギリス軍の前線は崩壊した。捕虜は2万人を越えた。第5軍(ゴウ)は後退を余儀なくされた。
ドイツ軍の戦闘序列
だが壊走はしなかった。師団が旅団規模となり、やがて大隊規模となった。しかし後衛を常にたて前進してくるドイツ兵に射撃を浴びせた。ドイツ軍の被害も急拡大していった。ここでドイツ第17軍(ベロウ)は北アミアン方向に転じ、一方第18軍(フーチェル)は南西パリ方向にむかった。
もちろん主目的はイギリス軍の包囲にあったから、アミアンに進む必要があった。ところがここはイギリス第3軍(ビン)の守備範囲で抵抗が激烈となり、ドイツ第17軍(ベロウ)は困難に直面した。一方第18軍(フーチェル)は前進してイギリス第3軍を後退させると、次にフランス軍が現れた。この敵は比較的抵抗が小さかったため、前進が容易だった。しかも前面はパリだった。ウィリアム皇太子にとり、前進の魅力は断ちがたかった。こうして、数日もたたないうちにドイツ軍の持病の独断専行がはじまった。
しかし弁解の余地はある。一点、40マイルに、全突撃隊を集中させよとの命令である。狭正面に3個軍もいては、密集隊形となり、被害が拡大してしまう。一旦前線が破れれば、扇状に前進せざるを得ない。
そもそも行軍隊形のままで、大量の軍を捕捉・包囲することは、当時の機動力では不可能なのだ。
おそらく第17軍の北進を、他の軍、マルウィツかフーチェルが並進して側面支援を行っても相当距離を進めば、どこかで連合国に側面を攻撃されただろう。結局、前線を突破できても、敵の抵抗がある限り、5日間程度前進して停止せざるを得ない。それでも西部戦線で40マイルもの幅の前線が突破されたのは、初めてだった。
3月25日、パリ市内にむけて、砲撃が開始された。パリ西方75キロに据えられた、重量138トン、砲身長30メートルのクルップ社製の巨大砲(名は付けられなかったがパリ砲と兵に呼ばれた。)はその日22発を発射した。パリ市民は16名の死者を出しながらも、恐慌に陥ることはなかった。
3月28日までに第1次攻勢は終了し、ドイツ軍は7万人の捕虜と1100門の鹵獲砲を得た。だが作戦目的を達成したとはいえず、ルーデンドルフは攻勢を終了させるわけに行かなかった。
MAP(第1次攻勢)
第2次攻勢(作戦名 ゲオルグ ウント マルス その後ゲオルゲット)
第2次の攻撃地点としてイギリス軍の南方への兵力移動を妨げる目的でアルメンティエール周辺が選ばれた。ここはイギリス軍の陣営のなかでポルトガル軍が守備していた。ルーデンドルフは初め2回の攻勢では、イギリス第5軍(守備施設が整っていないにもかかわらず、最も長大な前線を担当していた)と第1軍(ホーン)のポルトガル2個師団と弱い部分を攻めた。
第2次攻勢が4月9日開始された。攻撃軍はドイツ第6軍(クォスト)で、朝、攻撃の鬨の声をあげるとポルトガル軍は戦う前に後方に逃げ出した。翌日さらに第4軍(アルニム)が加わり、アルメンティエール北方を攻撃した。ここはイギリス第2軍(プルーマー)が守備していたが、アルメンティールを一時撤退後方に防衛ラインを設定、反撃に出た。3日目からはポルトガル軍の背後から第1軍の戦略予備部隊が守備をかため、伯仲した戦いとなった。ここでもドイツ軍はフーチェル戦術を用いたが、この戦術は前進壕を突破するのに役立つだけで、前進壕にいた兵士が攻撃とともに後方に逃げたら、一帯の不動産を得るだけになってしまう。
4月17日、再度リス川沿いで攻撃するが、今度はイギリス軍の猛抵抗にあい失敗してしまう。4月24日、リス川と、第17軍(ベロウ)がアミアン方向に呼応して攻撃をかけた。しかしこの時までに、フランス軍の戦略予備隊は、戦略要地のケンメル高地に配置が完了しており、ドイツ軍はどこも前進できずに失敗した。
MAP(第2次攻勢)
第3次攻勢(作戦名 ブルーヒャー)
5月27日、第3次攻勢が今度は南部、フランス軍に向けられた。この段階でルーデンドルフはカイザー戦の戦略的失敗を悟った。行軍隊形で海峡まで、歩兵(騎兵はもっと無理だ)が前進する、しかも敵に側面をさらさずに、というのは将軍の夢にすぎない。シュリーフェンが追い、ジョフル、ヘイグが続いた。ルーデンドルフは新戦術の導入で解決しうると考えたが、歩兵の足を改良することは無論できなかった。
しかし22年後、ヒトラーはタンクの集中使用=機甲師団で将軍たちの夢を実現させてしまう。このときヒトラーは第17軍(ベロウ)にいたが、強襲部隊には属さず、戦略予備(直協)として攻勢5日後からイギリス第3軍(ビン)正面にいた。
ルーデンドルフは攻勢姿勢の維持しか考えられなくなった。第3次の目標はパリだった。第1軍(ムドラ)と第7軍(ベーム)がフランス第6軍(デュシェーヌ)に向けられた。エーヌ川沿いにシェマンデダームに作戦重点がかけられたが、このあたりはニベル攻勢の場所だった。攻勢は成功し、最大の前進をなしとげ、5月30日、ついに再びマルヌ川に到達した。2日前の5月28日、ウィルヘルム二世はこの前線に激励に現れ、カリフォルニア展望台と呼ばれる高地にたってパリを遠望した。ウィルヘルム二世は生涯パリを訪れることができなかったが、これが一番パリに近づいた時だろう。
ドイツ軍の前進は続いた。しかしフランス軍が撤退したあと、アメリカ軍が現れた。マルヌ川東岸、シャトウチェリーでアメリカ軍は誰もが想像しなかった粘り強さで戦った。ルーデンドルフの、アメリカ人が来ても戦力としては有効でない、という公言ははずれた。新しい戦力が加わったことはフランス軍をも力づけた。
6月2日、ドイツ軍はついにマルヌ川を渡った。1914年の時と同じく、フランス政府はパリを離れた。
しかし、米仏合同軍はドイツ軍がパリに近づくにつれ防衛線を強化し、反攻姿勢を示した。ドイツ軍はすでに6日間連続で攻撃を行っていた。ついに疲れ果て、止まった。ここがドイツ軍の第1次大戦の攻勢限界点となった。
MAP(第3次攻勢)
第4次攻勢(作戦名 グナイゼナウ)
6月8日、ルーデンドルフは第4次攻勢を開始した。ルーデンドルフも以前3回の攻勢で生じた突起部の維持が困難だと認識し突起部をつなげることを目論んだ。しかし、連合国最高司令官フォシュも、このような単純な作戦は事前に察知した。攻撃は第18軍(フーチェル)と第7軍(ベーム)の両軍でパリ方向にかけられた。しかし2日間で7マイル進んだところで、米仏軍の猛抵抗に遭遇した。とくにノヨンモンダデイールで激戦となったが、戦略予備部隊を残す米仏軍が有利に戦闘をすすめた。6月11日には逆襲に転じた。ルーデンドルフは失敗を悟り、6月12日、4日間で攻撃を終了させてしまう。
フランス軍の反撃はマンジン指揮の第10軍で行われ、全く準備砲撃をせずタンクと歩兵の共同攻撃で実施された。両翼を歩兵でかため中央をタンクが進んだ。上空には爆撃機を配置し砲兵隊は歩兵の前進とともに砲撃を開始した。この攻撃は2日間で5マイル前進し、ドイツ軍の前線を崩壊させた。
スペイン風邪
6月の半ばから両軍に新たな敵が現れた。スペイン風邪である。唯一統計を残しているアメリカ軍によると、遠征軍のうち6万2000人が風邪で死亡したという。これは大戦中の戦死者4万9000人を上回る。ある統計によるとインドだけで1200万人がスペイン風邪で死亡したという。これは第1次大戦の全戦死者をも上回る。
ドイツ軍は第5次攻勢の延期を考えた。しかし、後方でもスペイン風邪は猛威を振るい、人々の希望はむしろ前線の勝利につながれた。7月9日、キュールマン外相が条件付き和平を議会で主張したかどで更迭された。軍部は士気を落とすものだと非難した。ウィルヘルム二世は当然のこととして軍部を支持した。ロシアのニコライ二世も政府を信頼せず将軍の言のみを信じた。将軍が退位を勧めると、300年の王冠を簡単に捨て去った。当時の考えでは、軍そのものが国家であり、立憲君主も政府でなく軍部を信頼した。
第5次攻勢(作戦名 マルネ)
7月14日、第5次攻撃が深夜開始された。しかし今回もフランス軍は事前に察知していた。ペタンは攻勢防御戦術を更に徹底させた。第1線の塹壕を完全な囮とした。この囮の塹壕に少数の自殺部隊を配置した。ドイツ軍は砲撃で残った自殺部隊を簡単に処理(!)したあと真の抵抗線にぶつかった。
「ドイツ兵が真の抵抗線に遭遇したときには、疲れ果て、バラバラに進むだけだった。もはや後方からの増援部隊がなければ行くことも帰ることもできないありさまだった」と当時レインボー師団長だったダグラス・マッカーサーが書き残している。また鉄条網にぶらさがった戦死者が夢にでて寝つけなかったという。
ウィルヘルム皇太子集団軍の第7軍(ベーム)と第1軍(ムドラ)が攻撃に参加した。戦場は前回と同じくマルヌ川沿いのシャトウチェリーだった。攻撃は3日間しか続かなかった。それでもマルヌ川の橋頭堡から5マイルは前進した。だが戦略予備が投入されなければ、維持すらできないのは明らかだった。
一方、フランス軍はエーヌ川沿いでマンジンの第10軍とアメリカ2個師団による反攻を7月17日から実施した。右翼を脅かされたウィルヘルム皇太子はたまらず、第7軍(ベーム)にマルヌ橋頭堡を捨て、撤退するよう指示した。これが11月まで続くドイツ軍総後退の始まりだった。7月21日、ドイツ軍はシャトウチェリーを撤退した。
MAP(カイザー戦1次から5次)
ドイツ軍失敗の理由
ルーデンドルフは、カイザー戦成功の根拠を新戦術、とりわけブルフミューラーの砲術と浸透戦術においた。この新戦術で、突破はそのものはできたのである。
ところが、連合軍主力を捕捉するどころか余裕をもって撤退された。
この時、連合軍はフランス軍参謀総長ペタンの発案になる、縦深防御=攻勢防御戦術を採用していた。ドイツ軍突撃隊により、ロート状の突破口はつくられると予め想定し準備していた。ルーデンドルフはペタンの術中にはまったのだ。ペタンの戦術の中心は戦略予備の機動的運用にある。ルーデンドルフはこれを見抜けず、ドイツ伝統の一点突破戦術に固執してしまった。
このカイザー戦でドイツ軍は96万人の損害を受けた。一方英軍は45万人、仏軍は49万人だった。損害はほぼ同等だったが、ドイツ軍の失ったものは最も精鋭部隊だった。フランス軍の被害は軽微で、イギリス軍はまだ本国に予備部隊を留めていた。そして米軍は来年の末までには300万の陸軍を派遣すると呼号していた。
ルーデンドルフの作戦は失敗した。そしてそのショックから二度と立ち直れなかった。ルーデンドルフの夢は、自分の作戦、とくに包囲殲滅戦を、完遂することだった。しかし、機動力の限界についに気づかなかった。それでも作戦目的が達成できなかった時、中止することはできた。ドイツ伝統の独断専行の尊重は、現場の判断を常に優先させた。そしてマルヌ会戦と同じくパリは常に現場の判断を狂わせた。

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