イタリーの参戦

イタリーの参戦

イタリーの参戦

イタリーの参戦

イタリーの参戦

イタリーの参戦

イタリーの参戦

イタリーは三国同盟の一員であり、開戦と同時に独墺側に所属すると思われたが、国内事情は複雑でそれを許さなかった。有力な政治運動として、イリデンティズムという大イタリー運動があった。これは南チロル(トレンチーノ)とトリエステ地方およびニースからカンヌにいたる南フランスを奪回しようというものである。

南チロルとトリエステはオーストリア領のため、三国同盟そのものに人気がなかった。またこの大イタリー運動はほとんど根拠がないもので、どの係争地域でのイタリー語人口も40%を上回らない。ヨーロッパにおける民族自決主義は極めて奇妙な傾きをもっている。小国が自国語を喋る少数派人口の地域を吸収しようとするのである。このため地域多数派を圧殺する傾向をもつ。

イタリーでは数百年前にイタリー自由都市があれば、ゆえに自国領だという荒唐無稽な主張がまかり通っていた。現在でもフビライ=ハーンの時代に統治していたから自国領だと主張する国があるから、笑えないが。これではローマ時代まで遡ればイングランドも含めて全部イタリー領になってしまう。戦間期で最も露骨な領土拡大を主張したのはムッソリーニのイタリーだった。

フランスでもドイツでも20世紀になってからは一応領土要求は当該地域で自国語を喋る人口が多数派だという点だった。アルザスはドイツ語人口が多数派ではあるが、住民はフランス人という意識が強く事実ローマ時代から経済的にフランスと一体だった。普仏戦争でドイツに併合が決まった後、ほとんどドイツ語しか喋れないアルザス人50万人がフランスに移住した。小国は住民投票で必敗する場所を領土として要求する。この要求を多数派の敵対国が支持するので、余計主張に根拠があるようにみえる。また住民投票は大国の影響下にあるので認められないとしばしば主張された。

サラェボ事件はオーストリアがセルビア人の住むサラェボ(ボスニア)をセルビア王国と併合を求めた民族運動を圧殺したため起きたとする見解が連合国で強いが誤りである。サラェボのセルビア人口が30%を上回ることは歴史上ない。

南スラブ運動は連合国があとでセルビアをあとおししてできたもので、クロアチア人やイスラム系スラブ人、スロベニア人は始めから消極的支持だった。イタリー人の大イタリー運動もセルビア人のと大同小異である。

開戦後、英仏は三国同盟の亀裂を見逃さず、イタリーにオーストリアの犠牲で領土拡張を承認する案をぶつける。中心となったのはイギリス外相グレイだった。1915年4月26日、ロンドン密約が英仏伊間で結ばれた。これによれば、フィウメを含むトリエステと南チロルをイタリーが割譲を受けるかわりに連合国側にたち参戦するというものだった。

伊墺交渉

ロンドン密約は代表的な秘密外交とされのち非難対象となった。初めに秘密外交を批判したのはボルシェビキだがその後改心して、1922年秘密協定を含むラッパロ条約を結ぶ。アメリカのウィルソンはパリ講和会議でイタリーのこのロンドン密約をたてにとったフィウメ奪取の姿勢に苦労した。フィウメはイタリー語人口は少数で民族自決の原則に反したためだ。イギリス人は生死の関頭にたてば許されると主張したが、大戦後はこのような外交は公然とはしていない。日本は旧軍部が外交の真似事のようにアジアのみでこの種の協約を締結したようだが、詳細ははっきりしない。どうも秘密外交は親戚同士の気安さから行われる傾向があると思われるが。

イタリーの参戦は大イタリー運動、秘密外交と日和見主義(中央同盟国か連合国か勝つ方のつく)の3本から出てきたものであり、イタリーが強国になり得ないことを示している。

カドルナ

宣戦布告はオーストリアのみに1915年5月24日行われた。参謀総長のカドルナが実質的な司令官だが、期間中議会や文民政府の掣肘をうけることながあまりなかった。だが優秀な司令官とはみなされていない。イタリー王国の君主エマヌエルV世は憲法上象徴的存在ではあるが、戦中に前線慰問にかず多く現れ、威信をましたようである。            

イタリー陸軍は徴兵制をとっており、全土に12個軍団が配置されていた。しかしイタリー王国がピエモント公国出身である結果か、制度として、各軍団に均等に各地方の壮丁が割り振られた。イタリーの地域主義を排し、軍団を同じ質にする目的をもったらしいが、動員時および補充兵の部隊編成を考えると、困難が増した。すなわち動員時、全国から兵士を各軍団ごと集めなければならないし、補充兵も各地から呼び寄せねばならない。

この欠陥をカバーする交通と官僚制度に欠けており常時各軍団は定員不足だった。そのうえ装備は長期間放置されたままで、旧式と言う点でヨーロッパ第一だった。とてもオーストリアとはいえ、近代的軍隊と戦える状態になかった。将校も定員割れで予備役将校は訓練を一回も受けていない者が大部分だった。

第2次大戦でイタリー軍と共同作戦を実施することになる、砂漠の狐、ロンメルは第1次大戦ではアルパイン猟兵を率いていた。ロンメルはドイツ猟兵一人でイタリー兵20人に匹敵すると言ったといわれる。これはすこし割り引かねばならない。イタリー兵はカポレットーの戦いまでは良好とはいえないが、粘り強くイソンゾ河畔で戦っていた。集団脱走が始まり、軍の呈をなさなくなったのはそれ以降である。

イタリー戦線

イタリー戦線は山間部(南チロルまたはトレンチーノ)と東部の平野部(イソンゾ川沿いと後半はピアブ川沿い)で戦われた。

前半はイタリーとオーストリア間の戦いだったが後半は独、英仏が介入した。戦局はだいたいオーストリア有利に進捗した。休戦までイタリーはオーストリア領内に踏み込むことはできなかった。

この戦線が西部戦線に与えた影響は軽微で、また英仏の負担がより重かったようだ。イタリー軍の装備は劣悪でまた砲弾も支援をうけねばならなかった。また全般的にイタリー人はアルプスにむかって登らねばならない。上から下にする方が攻勢でも防御でも有利だった。

1915年

1915年5月イタリーは連合国側にたって参戦した。オーストリアの参謀総長コンラートはイタリー戦には自信をもっていたが、ドイツのファルケンハインに止められ、防御姿勢をとることになった。この両者の確執はファルケンハインの解任まで続く。従って、イタリー軍(参謀総長カドルナ)がイニシアチブをとることになり、平野部が戦場として選ばれた。

第1次から第4次イソンゾ戦(6月−12月)はイタリー軍がよく整備されたオーストリアの守備陣地に攻勢をかける形で戦われた。オーストリアの野戦軍司令官はオイゲン公でよく守備した。イタリー軍は損害16万人を出し、全く前進できなかった。たいするオーストリア軍は11万人といわれる。

1916年

第5次イソンゾ戦が3月またもイタリー軍の攻勢で開始された。しかし今回も成功できなかった。するとコンラートは、南チロルで攻勢にでた。このあたりは氷河時代の名残でU字渓谷をなしていたが、イタリー軍は山頂部を守備しオーストリア軍は谷間を進んだ。上下で上が有利といっても、山頂部から谷間へは標高差が相当あり射撃にならない。イタリー兵は山頂部にとり残され、補給を断たれ降伏していった。

南チロル(トレンチーノ)で山頂部に陣取るイタリー兵

南チロル攻勢

しかし6月にはいりブルシロフ攻勢により東部戦線のオーストリア軍は崩壊し、攻勢は中止となった。これをみてカドルナは8月第6次イソンゾ戦にでた。しかし弱体化したオーストリア軍に歯がたたない。カドルナはそれでも第7次から第9次までイソンゾ戦に固執した。しかし戦果はあがらず11月には退潮にむかった。

1917年

オーストリアではフランツヨゼフ皇帝が1916年11月薨去しカールT世があとをついだ。カールは攻勢一点張りのコンラートを革職、かわりに温順なシュトラウゼンベルグに代えた。カールは分離和平を模索するが、失敗に終わる。連合国は戦後処理はドイツでなくオーストリアの負担で実施することになると予感しており、単独講和はできない形勢だった。

イタリー軍も消耗していたが5月第10次イソンゾ戦にでる。しかし失敗、6月再度第11次イソンゾ戦にでる。今回は北部で第2軍(カッペロ)がある程度の前進に成功した。これがイソンゾ戦中唯一のイタリーの前進だった。

オーストリア軍はここで崩壊寸前の状況となった。ルーデンドルフは支援の必要を感じ、ベロウをイソンゾ戦線全軍の司令官兼第14軍司令官として派遣さらに、山岳戦のエキスパートでアルパイン猟兵を率いたデルメンジンゲンをも派遣した。ドイツの支援は12個師団程度で多いとはいえないが、デルメンジンゲンのアルパイン猟兵を中央に位置させ両翼をオーストリア軍(第5軍と第10軍)が守り、10月カポレットで突破作戦に出た。

カポレットー突破戦

この戦いはドイツ側もおそらく予想できなかった大成功を収めた。成功の主因はフーチェル戦術といわれる浸透作戦で、ブルシロフの方法を一部取り入れたものだった。アルパイン猟兵はこの方法に最も習熟していた。

1週間で全軍はピアブ川の線まで前進し、ベニスを覗う形勢となった。イタリー軍の損失は60万人に達し約半分の装備と人員が失われた。カドルナは前線を整理しながら、ピアブ川に敗残の兵を収容することはできた。しかし最早英仏の支援がなくては前線の維持は不可能だった。

カポレットの戦いは第1次大戦でも屈指の一方的な勝利だった。だがこの方法では、砲兵の行軍スピードより早く前進することはできず、ナポレオン時代の騎兵や第2次大戦の戦車による突破=戦果拡大はこの時代では不可能だった。ピアブ川で前進が止まったことを非難するむきが特に戦後、将軍たちの間であるが、それは昔への郷愁だけだろう。

カドルナは分離和平と後方への撤退を主張したが、11月免職され、ディアツに代わられた。英仏は11個師団(プルーマー)を応援におくり戦線を安定させることに成功する。

    1918年               

オーストリアはロシアに勝利した形となったが、前途は明るくなかった。ロシアからの帰還兵はしばしば反乱を起こしたし、そうでなければ強盗団となった。食料暴動が発生し政府はウクライナでの調達に追われた。アドリア海で水兵がすぐ鎮圧されたものの反乱を起こした。ドイツ兵とハンガリー兵、またイタリー戦線のクロアチア兵以外は出身地から出ようともしなかった。

しかしコンラートは南チロル軍司令官だったがまた攻勢を主張し、6月ピアブと南チロル両面で攻勢に出た。イタリー軍は今回はもうあとがなく粘り強く戦った。英仏軍の支援も有効だった。ピアブでは前進に成功したが、コンラートは新戦術を学ぼうとせず、両面攻勢は片翼前進となって失敗した。これでもディアツは攻勢に自信がなく、西部戦線で休戦交渉が終了しようと言うとき、ピアブ川渡河を開始した。しかし始めは全く成功せず、11月4日休戦が発効したあと攻撃にでてオーストリア軍30万人を捕虜にした。

ただ捕虜の収容経費のみ負担したようなものだが、イタリー人は何か勝利が欲しかったのだろう。



Anon. The War in Italy, Milan, 1916
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