ゴルリッツ突破戦

ゴルリッツ突破戦

ゴルリッツ突破戦

ゴルリッツ突破戦

ゴルリッツ突破戦

西部戦線は膠着化し、オーストリアはガリシアで大敗を喫しつつあった。この打開としてファルケンハインは結局、東方派のまずロシアに部分講和を強制し、英仏と当たるという戦略を採用するより他になくなった。この方法でもロシアが講和に応ずるかは不明である。このためファルケンハインはロシアを極端に追いつめないことを念頭に置いた。

一方東方派(ヒンデンブルグルーデンドルフ)は徹底して追いつめなければ、ロシアは講和に応じないし、また領土としては西方よりも東方に魅力があるとみていた。このあたりはヒトラーの考えに似ている。歴史の結果ではロシアの態度をみると東方派に軍配があがる。

作戦としても東方派はポーランド突起部にいるロシア軍の包囲せん滅を考えた。ファルケンハインはあくまでガリシアのオーストリア軍の負担軽減とイタリーの参戦阻止を念頭においた。このため突破戦を考案し、コンラートと協議にはいった。

当然ルーデンドルフは面白くなく、東部軍も呼応して南下してワルシャワ周辺で包囲する案を具申した。この対立は突破戦のあとも尾を引くことになる。ファルケンハインは、包囲戦はこの広域では無理だと主張した。結局逃げられるというのである。シュリーフェンプランの失敗をみれば広域で包囲するというのは確かに無理がある。歩兵の行軍より鉄道の方が早いのは自明である。距離をとっても外線を縁辺上進むより、内戦を直線的に脱出する方が早い。軍事リアリズムから見れば、ファルケンハインの方が正しいのだろう。

まず西部戦線から8個師団を抽出し、新たに第11軍が編成された。司令官にはマッケンゼン、参謀長にはゼークトが任命された。ゴルリッツ突破戦で新たに増強されたのはこの軍だけでファルケンハインの東西均衡主義は自らの作戦でも変わりはない。

タルノウ−ゴルリッツ突破戦(第1次攻勢)

突破点はタルノウ−ゴルリッツ間が選ばれた。ここは左側がウィクセル川でかつ右側はベスキデン山塊で側面攻撃の不安がない。攻勢部隊はオーストリア第4軍も加わることが決まり隠密裏に汽車の手配がなされた。

1915年5月東部戦線

また東部軍(ヒンデンブルグ)にラウエンシュタイン兵団が組成されクールランド(現リトアニア付近)に進出し牽制作戦を行い、多少のロシア軍を引き付ける役割を担った。この兵団はのちにニーメン軍と改称される。

更にファルケンハインは西部戦線でもイープルで陽動作戦に出る事を決めた。これが第2次イープルの戦いである。一方ロシア軍は最南部のブコビナで第12軍を編成し、そこからハンガリーのブタペストに打通する予定であった。このため兵力を抽出中であるとともに、プルゼミスル包囲軍の第11軍もブコビナに移送中でゴルリッツ正面の第3軍は孤軍の状態にあった。本来は北西軍(アレクセイエフ)が協力すべきだが、ロシアの官僚制はそれを可能とするには程遠いものがあった。

第1次大戦で限定的であれ突破が成功したケースはすべて奇襲効果が前提となっている。つきつめれば事前砲撃ですら、奇襲効果が減ずるため有効ではない。これまで西部戦線にいたゼークトはまず情報の秘匿に努めた。ガリシアに住むルテニア人は言葉の関係か親ロシア的でゼークトは住民の移住すら検討したほどだった。

ルテニア人

ところがロシア第3軍(ドミトリエフ)はやはり正確な情報を住民から得ており、攻撃地点と攻撃日が5月2日というところまでつかんでいた。この情報に対して南西軍(イワノフ)司令部は、恐ろしいことに野戦築城は済んでいるし、ブコビナで攻勢に出るから大丈夫と答えている。結局ある情報にたいする反応というのは、自分の関心事から離れられないということか。

ロシア歩兵

突破はごく単純な4時間連続の砲撃で開始された。ところがこれでロシアの陣地は壊滅してしまうのだ。終了までに三分の一が死傷し残りは迫撃砲射撃が始まると壊走してしまった。

ロシア軍の塹壕はただの溝で砲撃にたいする掩蔽設備が全くなかった。通常は第1線の塹壕に付随して、コンクリート製もしくは地下10メートルに達する避難設備が併設されているが、ロシア兵は横一列で浅い壕に密集して並ぶだけだった。

ロシア軍の塹壕

壊走に移ると、交通壕も併設されていないケースも多く、野原を立って走る以外なく余計に機関銃で倒されることになった。5月3日までに独墺軍は幅13kmにおよぶ突破に成功した。正面のロシア第10軍団(サクハノフ)は34千人のうち5千人しか残らなかった。当初二日間司令部付きの戦略予備部隊が増援に走ったが、逃げるだけでその後わずかに第3コーカサス軍団が救援にかけつけ、残余部隊の退却を掩護することができただけだった。

独墺軍のゴルリッツ突破戦における予備第41軍団の攻撃

ドミトリエフは撤退を具申するが大本営は許可を出さない。とくにニコライ大公が強硬で、ブコビナ攻勢を成功させるためには、第3軍が現位置を死守することしかない、と考えていた。これは致命的な失策だった。

マッケンゼンは二日間で大量の捕虜を得かつ前面の敵を粉砕したが、決して前進を急がなかった。この土地での補給の困難を考慮し、また敵を圧倒する弾薬が集まる以前には攻勢には出ていない。

マッケンゼン;Leib Husar(Hussars)親衛軽騎兵の制服(礼服)を着用している。帽子の髑髏は「死ぬまで戦う」を意味した。この制服は現在日本で使用されている男子用学生服の原型と言われる。(学習院で初め着られた。)

5月7日ロシア軍は総司令部に強要され反撃にでた。しかし第3コーカサス軍団と第24軍団を除くとまともな部隊はなかった。第9軍団と第10軍団は兵員が一割もいなかった。南西軍(イワノフ)はブコビナ攻勢のため兵力に余裕がなく北西軍(アレクセイエフ)から増援部隊が送られたがいずれも弱体な部隊のみでまた十分ではなかった。この兵力の小出しの誤りをロシア軍はこの戦いを通して繰り返す。

戦闘はドクラ峠周辺で行われたが、一方的な屠殺だった。マッケンゼンは100万発の砲弾を用意し迫撃砲も準備したが、ドミトリエフは10万発しかなくまた迫撃砲はなかった。

ロシア軍の弾薬不足は深刻で、これに加えて小銃も不足し全ての兵士に行き渡らなかった。兵士は戦死した兵士から銃をとって戦えと訓令されたという。ドクラ峠の北方ではオーストリア第4軍が、ドイツ派遣のプロイセン近衛師団を中核に前進しロシア軍は壊走した。

5月10日までにロシア軍は14万人の捕虜を出した。第3軍は事実上消え去った。ドミトリエフの表現によれば出血死だった。残余部隊はサン川まで退却した。

ドイツ大本営(OHL)は5月9日西部戦線・メディエールからシュレジエンのプレスに移動した。

ドイツ大本営

ロシア軍も予定したブコビナ攻勢を開始した。またカルパチアでもドイツ南方軍(ズューダルメー)を攻撃した。ロシア軍は相当の成功を収め、ブコビナを全面占領したが、ファルケンハインが予想したように何の効果もなかった。サン川方面のドイツ軍の進撃を止められなければ、戦果を確定できないのだ。

マッケンゼンはここでもゆっくり進んだ。全て補給線が確立するまで前進しようとしない。砲弾が100万発まで蓄積されるまで待つつもりだった。これにはファルケンハインも弾丸を節約せよと指示している。サン川の防衛線もロシアに不利に出来ていた。もともとオーストリアが築城したから、東から敵が来ることを想定しており、防衛設備は西岸にあった。このため背水の陣とならざるを得なかった。

5月16日から始まった戦いはゴルリッツの繰り返しにすぎなかった。しかもロシア軍はその時より弱体化していた。5月19日にドイツ軍は渡河を開始し、逃げ惑うロシア兵はサン川に飛び込み多数が溺死したと伝えられる。5月25日までにサン川の線での抵抗は終了した。ロシア軍はブコビナを制圧したもののブコビナから東ガリシアの狭い回廊に押し込められる形となった。

5月24日イタリーが連合国側にたち参戦した。この段階ではオーストリアのみに宣戦し、ドイツにはしていない。1年後にはするのだが。イタリーの参戦はしかしロシアが期待したようにならなかった。国境は山岳地域で僅かな兵で防衛可能だった。またイタリー軍の装備は旧式で、有効な作戦計画も保有していなかった。このためコンラートは手はず通りガリシアにある第3軍と多少のバルカン方面軍をあて伊軍の攻勢を防ぐ事が出来た。

このロシアの形勢不利な段階での参戦は不可思議だが、イタリー人はロシア軍の不利をみて参戦を取りやめる事は余りにも信義に反すると考えたらしい。サン川での抵抗に失敗しロシアの残された道は撤退しかなかった。6月4日ドイツ軍は無抵抗のままプルゼミスル要塞を奪還した。

ここでドイツ軍内部に進攻方向をめぐり論争が生ずる。ファルケンハインはバルカン方向に進撃しトルコへの補給路を確保したかった。コンラートはイタリーに攻勢をかけたかった。ゼークトはサン川河畔のヤロスラウ駅でファルケンハインにロシア軍を追い戦果を拡大すべきだと説得した。方針はサン川を越えその後北進することに決した。オーストリア第2軍が6月22日レンベルグに入り、一部を除きガリシアをすべて回復した。

ここまでの戦闘でロシア軍は24万人の捕虜を出し9万人が戦死または戦傷をおった。マッケンゼン軍はオーストリア第4軍を加えても総軍で25万人にすぎない。

ゴルリッツ突破戦は第1次大戦で最も成功した突破戦である。ロシアの築城方法が西部戦線の英仏に比較し格段に劣っていたことが主因だろう。

マッケンゼンは方向を北に転じた。ここでコンラートから騎兵を進出させてポーランド・ポケット(突起部)を閉じたらどうだ、と提案があった。ファルケンハインは一顧だにせず次のように一蹴した。敵がどうしても守備しなければならない所を、砲の優越で突破すればよい。敵と競争して側面をつかれたり、補給が追いつかなくなる方が危険であると。ファルケンハインやゼークトはコンラートおよびルーデンドルフより新しいタイプの参謀将校だった。

騎兵の終焉

ところがマッケンゼンはファルケンハインの想定より更に遅く進んだ。サン川から北へは軽便鉄道の建設をはじめた。砲弾はおろか補充兵もすべて来着を待つ姿勢だった。実際にはゼークトの指導によるが、騎兵による側面攻撃の時代は終わり新しい作戦指導が感じられる。

この乱軍のなかに後の赤軍の指導者が兵員でいた。トハチェフスキー・ジューコフらであった。このマッケンゼン軍の行軍はどこか第2次大戦末期のソビエト軍のベルリン進撃を思い起こさせる。斉頭面で徐々に前進、つまり突起部を作らず、補給線を確保してから前進する戦い方である。

7月に入りファルケンハインはポーランドにいるロシア軍を追い出し(殲滅ではない)ブレスト・リトウスク南北線(別名カーゾンライン現ポーランド・白ロシア国境)までの占領を決断した。まず大幅な区署の変更をおこなった。クールランドにいるラウエンシュタイン兵団をニーメン軍(ショルツ)に改称し引き続き牽制作戦を実施する。

東部軍(ヒンデンブルグ)のもとにガルウィツ支軍(のち第12軍)を編成し南部への突破の任務をあたえる。第9軍(バイエルン・レオポルド親王)はその右翼に位置し側面援護をおこなう。第11軍(マッケンゼン)を分割し、プーク軍(リンシンゲン)を創設し第11軍の右翼を守備する。

このように北からナレウ川に向かいガルウィツ支軍が突破を計りワルシャワを占領する。南から第11軍が集中する敵を撃破しながらブレストリトウスクに向かう。最北のニーメン軍が牽制作戦をおこなう。このように三方面からの進軍でロシア側の動揺を誘う計画だった。

このファルケンハインの計画に対しルーデンドルフは執拗にニーメン軍を強化しコウノ(現リトアニア;カウナス)方面に前進することを主張した。しかしコウノ方面にロシア軍の兵力集中はなくこの作戦は空振りの公算が強い。一方コンラートは更に東に進みその後北に転じ、プリペット沼沢地を通過することを主張した。これはゼークトの支持も受けており一番有力であったが、ファルケンハインはプリペット沼沢地が通過可能であることを知らず、ボツとなった。プリペット沼沢地は数年前にダムがつくられ水面が下がり通行可能となっていた。

第2次攻勢

第2次攻勢は7月13日南北同時に開始された。

ガルウィツ支軍はナレウ川の前面、とくにプラスニッシュに集中して攻撃をかけた。ナレウ川周辺を守備していたのはロシア第12軍(チューリン)と第1軍(リトビノフ)だがちょうどその中間をついたものだった。ここでもロシア軍の築城は不完全で掩蔽壕はあるにはあるが、木製で浅かった。第2線の壕との間には樹木が伐採されず残り射撃の邪魔となった。7月17日までにプラスニッシュにいたロシアの2個師団は消滅した。リトビノフはそのうちのシベリア師団に現在位置を確保し抵抗を続けるように命令したが、これはロシアの指揮官の無能さを示すものだろう。砲で圧倒された場合射程距離外に出る他ない。もちろん掩蔽壕があれば別だが。

北西軍司令部(アレクセイエフ)は直ちに戦略予備の第21軍団と第3シベリア軍団を救援におくるが、間に合わないのである。この辺が東西両戦線を分ける要因だろう。

他方マッケンゼンはルブリン前面のクラスニックとクラスノスタウでロシア第3軍と第13軍を撃破した。実際のところはロシアの両軍とも相当の被害を蒙りかつ補充も十分ではなく既に敗軍の状態だった。

ノボゲオルギエウスク要塞

北方のコウノも脅威にさらされ、南北の防衛線が突破されると最早全面撤退しか残されなかった。7月22日ニコライ大公はポーランドからの全面撤退を命令した。ただしノボゲオルギエウスク要塞はガリシアのプルゼミスル要塞と同じ役割、すなわち敵中に孤立しても篭城することが期待され、篭城軍が残された。

ノボゲオルギエウスク要塞(第3保塁)

ドイツ軍攻略後で、要塞は川向こうの建物である。川はウィスチュラでドイツ軍はここに架橋した。ただし攻撃は当然ながら反対側の陸から行われた。

これは全くのナンセンスだった。プルゼミスルは泥、塹壕で囲まれていた。ノボゲオルギエウスクはコンクリートと煉瓦で出来ていた。アントワープの覇者べーゼラーが派遣されまたも30.5センチ砲が炸裂すると司令官のボビールはすぐさま降伏してしまった。   

これを除くとロシア軍の撤退は秩序だって行われた。ポーランド突起から東に行くにつれ戦線が短縮される。このため後衛の密度が撤退するにつれ厚くなった。ゴルウィッツ支隊は追撃戦で6万人の死傷者を出し一時停止を余儀無くされた。「逃げるロシア人に気を付けろ。」というのはここでも真理だった。

8月5日ワルシャワが陥落した。ロシア民間の避難民だけで100万人に達したという。鉄道は軍用が優先されたため、多くは鉄道線路沿いを東に徒歩で向かったと言われる。8月18日コウノが占領された。また8月26日プーク軍(リンシンゲン)がブレスト・リトウスクに到達し第2次攻勢はドイツ軍の作戦通り終了した。

ドイツ軍部の内部抗争

第3次攻勢

ここでまたドイツ軍内部で抗争が始まる。ファルケンハインはロシア全土の占領どころかペテログラードまたはモスクワに到達する事すら不可能と考えていた。ところがルーデンドルフは夢みていた節がある。ファルケンハインはこの後の第3次攻勢の終了後、デンマークを通して、不割譲を条件とする和平交渉に出て失敗している。一方ルーデンドルフはファルケンハイン=参謀本部の許可なく東部軍独断で第3次攻勢を開始する。このあたりはほとんど関東軍もかくやと思わせる。そして東部軍の指揮下にないレオポルド軍集団も呼応して攻勢を開始する。

ファルケンハインは軍を興された以上、中止を命ずることもできず、バルカン方面軍(マッケンゼン)への抽出と西部戦線への移動を理由として師団単位で東部軍から引き上げを計画し実際上の継戦を難しくする策にでる。

対セルビア戦を目的としたバルカン方面軍の創設は、9月2日ブルガリアがドイツと秘密協定を結び参戦を確約したことから、具体化した。9月以降第11軍はマッケンゼンが司令官ではあったが、自身はすでにベオグラード対岸に移動していた。

一方ロシアは9月1日総司令官のニコライ大公が辞職、コーカサス方面軍司令官に転じた。後任はニコライ二世自ら就任した。この挙は他の連合国にはロシアの継戦意欲の現れと歓迎されたが反面ニコライ大公の人柄を惜しみ、反発も受けた。ラスプーチンの差し金とする見方もあるが、やはり分かりにくい人事である。もともと君主は最高司令官であるから総司令官となる必要はない。参謀総長もヤヌシュケビッチからアレクセイエフ(旧北西軍司令官)にかわった。

ルーデンドルフ

ルーデンドルフは第10軍(アイヒホルン)を中心にビルナ奪取を目指した。ところが正面攻撃は失敗してしまう。ロシア軍の戦線は1700kmから1000kmに短縮しかつ二正面から単一戦線に変わっていた。一方ドイツ軍の方は補給路の設定そのものが開拓行為に近かった。

それでもルーデンドルフの兵力展開は見事でロシアは突然現れるドイツ兵に翻弄されつづける。9月4日からビルナを正面、南北と三方向で攻めたが功を奏さず、ロシア側の退却命令で9月18日にようやく陥落させた。ドイツの進撃はそこまでだった。南ではレオポルド軍集団が無人の地をプリペット沼沢地まで進み停止した。ただ補給路を長くしただけだった。

9月20日ファルケンハインは13個師団の西部戦線への移送を命じる。ルーデンドルフも補給の困難と余りの荒涼たる地形と近づく冬とで、9月24日攻勢中止を命令し直ちに塹壕の構築を指令した。

トレムボウリャ西方におけるロシア第11歩兵師団の反撃

結局ファルケンハインの指摘は正しかったことになる。新しい戦線は1939年までのソビエト−ポーランド国境とほぼ同じである。10月にはいりむしろロシア軍が攻勢にでて失敗し、その後は両軍とも冬篭りとなった。しかし連敗のロシア軍は翌年6月大攻勢ができるまでに回復する。


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