ガリポリ上陸戦

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ガリポリ上陸戦

ガリポリ上陸戦

1914年末、西部戦線の膠着化が決定的となった。年が明けて1月5日の閣議でキッチナーはダーダネルス海峡への攻撃、すなわちトルコへの攻撃を提案する。これはイギリスのとる初めての戦争へのイニシアチブだった。提案はキッチナーからだが骨子を考えたのはチャーチルだった。だが、バルカン半島を横断してベルリンに達することは出来るのだろうか。

チャーチル

正門、西部戦線での膠着を打開するため裏門をダーダネルスに設定したとするなら、地形を考慮したとは思われない。結局裏門はロシア正面、東部戦線でしかない。もちろんダーダネルス海峡を打通し、コンスタンチノープルを占領すれば、黒海への道は開ける。しかしそれがトルコの打倒につながるかは不明であろう。アナトリアに退却しても、小さなイギリス分遣隊が相手であればドイツからの補給を断たれても継戦可能だろう。

ロシアへの補給をいうなら、ペルシャまたは日本経由だろう。ペルシャの自由通行が難しい情勢であれば、日本経由でしかない。実際ロシアへの輸入弾薬および銃、砲はほとんど日本製または日本経由だった。シベリア鉄道の輸送能力は小銃・砲などの工業製品に限れば十分だった。そして工業製品を除けばロシアは自給能力があった。ソ連時代でも食糧輸入国に転落したのはブレジネフ時代からだ。しかし不思議なことに日本を含む連合国はこの事実の公表を当時歓迎しなかった。そして今でもあまり知られていない。

チャーチル(海相)はこの作戦を初め海上からの砲撃で簡単に勝てるものと想定した。そして海上からの攻撃が失敗すると地上兵力による上陸作戦でまた簡単に勝てると考えた。いずれも誤りだった。チャーチルはのちにダーダネルス作戦は正当なギャンブルだったという。すべての作戦はカケの要素を伴う。しかしギャンブルをする前に掛け率やゲームのルールは調べるべきだろう。

事前に地形、トルコ軍の展開状況について全く調べていない。ただ海軍が作戦の主導権を取ることが海軍国にとり相応しいことと思われた。とにかく全てが即興的に、異常な迅速さ,また奇妙な透明性をもって決められた。後になり作戦が失敗したのが明らかになると閣議や軍部内で賛成したにもかかわらず首相アスキス、海軍軍令部長フィシャーらは皆責任をチャーチルの押し付けた。そしてチャーチルはむしろ積極的にその責任を引き受けた。5月に海相のポストをおわれ、その後大戦終了前軍需相となるまで要職に就く事はできなかった。

1月13日の閣議でチャーチルは海軍による艦砲射撃を中心とする攻撃でガリポリ半島を占領しコンスタンチノープル攻略を目的とする作戦計画を説明した。議事録にキッチナーがもし艦砲射撃に失敗すれば射撃を中止すればよいか、と呟いたことが記載されている。作戦は満場一致で承認された。

ダーダネルス海峡突破作戦

2月19日おそらく地中海開闢以来の英仏共同の大艦隊がギリシャ領レムノス島ムドロス湾に集結した。イギリスは4隻のド級戦艦を含む14隻の戦艦とフランスは4隻の戦艦をおくった。なかでもクイーンエリザベスは超ド級戦艦で15インチの巨砲を搭載していた。そして航空母艦アークロイヤルのほか多数の補助艦艇が随伴していた。

クイーンエリザベス

司令長官はカーデンでチャーチルに艦隊による攻略計画を立案した当人である。艦砲射撃は三段階に分かれトルコの陸上砲の射程外から徐々になかにはいる計画だった。9時51分から始まった艦砲射撃はトルコ側からなんら応射をうけず、午後6千ヤード以内で散発的な応射があっただけだった。そして日没とともに引き上げた。

天候不良による5日間の休止のあと2月25日艦砲射撃を再開した。トルコ軍の砲台部隊は砲台をすて退却していった。翌26日陸戦隊がセデルバール砲台に上陸、占拠した。チャーチルはセデルバール砲台占拠の報を受け取り、グレイ外相にトルコ領ヨーロッパの全ての没収を条件とする休戦案の作成にかかるべきことを示唆した。3月2日カーデンは天候がよければ、2週間以内にコンスタンチノープルを占領すると打電した。すべてが順調なように見えた。

3月4日トルコ軍が反撃を開始、セデルバールから陸戦隊を駆逐するとともにクムカルとヘレス岬に砲台を設置した。翌日から悪天候をおして掃海艇部隊が夜間出動した。しかし海峡は狭くサーチライトの十字砲火で作業は進まなかった。ダーダネルス海峡を打通するために掃海は絶対条件である。しかしトルコ軍も執拗に掃海艇の進入を拒んだ。3月13日掃海艇に決死の志願兵をのせ夜間掃海に努め、相当の機雷を回収した。

MAP

3月17日カーデンが突然神経症となり、ローベックと交代した。ローベックはチャーチルに天候が許せば翌日にも攻撃すると直ちに報告した。

3月18日ローベックは全艦艇を3挺団にわける海峡突破の作戦を作成した。第1挺団クイーンエリザベスを筆頭にイギリスの6隻の戦艦・巡洋戦艦、1マイル遅れて第2挺団は4隻のフランスの戦艦を中軸に両側に2隻のイギリスの戦艦、さらに海峡外に第3挺団として6隻の戦艦と補助艦艇が見守った。海峡通過は白昼10時半に決行された。

クイーンエリザベスの15インチ砲が海峡のチャナック砲台に火をはくと後続の艦はキリドバール砲台と次々に放火を浴びせた。トルコの沿岸砲も応戦するが戦艦の上部構造に被害は与えるものの沈める事はできなかった。午後にはいりローベックは更に近接して射撃をする事を決意、第1第2挺団とも両側の砲台に近接していった。その後約45分間の猛烈な射撃のあとトルコの砲台は徐々にに沈黙し始めた。

午後2時ローベックはやや被害の大きい第2挺団と第3挺団をいれかえることを決意し第2挺団はUターンを始めた。その時フランス戦艦ブーベが触雷、轟沈した。これを見たトルコ砲台は息を吹き返したように砲撃を再開、また英仏艦も反撃した。

2時間の砲戦ののち再び英戦艦インフレキシブルが触雷した。しかしなんとか沈没は免れ、テネドス港への回航に成功した。そしてその直後にイリジスタブルも触雷、操縦不能となった。そしてオーシャンがその支援に向かうと、オーシャンも機雷に触れ、舵が破壊され同じ場所をグルグル回るだけになった。ローベックは作戦を中止、両艦の乗組員をクイーンエリザベスに収容し海峡を脱出した。その後イリジスタブルとオーシャンを捜索したがついに何も発見できなかった。

この沈没した3隻の戦艦とも旧式艦で翌年にもスクラップとされる予定にあった。機雷線は10日前、汽帆船ノウスレットが敷いたもので、他は海峡を横切る形で敷設されていたが、これだけは平行して敷設され見逃されたものだった。しかし被害の内容はともかく海峡を突破できなかったことは事実だった。

一方トルコ側は完全に打ちのめされていた。トルコは国内に砲弾工場をもたず、すべて輸入にたよっていた。砲台が沈黙したのは砲弾が尽きたためで、敵弾の破壊によるものではなかった。

砲弾は全量の6000発が発射され後がなかったのである。この後ルーマニア経由のドイツからの供与に頼ることになる。

翌日、ローベックは掃海艇を再度投入し、海峡突破を図ろうとした。しかし陸戦の司令官、ハミルトンは違った見解を有していた。戦艦だけではだめで、まず陸戦部隊を上陸させよう、と。この時点で二人ともトルコが応戦能力を失っていることに気づかなかった。こうして恐らく海軍だけによる海峡突破の唯一のチャンスは失われた。陸戦の準備が整う4月中旬まで、海軍もレムノス島で休止することになった。一方トルコ青年党の覇者エンベルパシャはダーダネルスの守備を担当する第5軍の司令官にドイツ軍顧問団のリーマンサンダースを任命した。

エンベルパシャ

ロンドンではチャーチルが一人この結論に不満で、海軍だけで海峡突破ができると思っていたが、攻略は時間の問題であること自体は疑わなかった。

3月20日、イギリス・ロシア秘密協定が締結された。ロシアは他のアジア・トルコ領には興味を示さない見返りに、ヨーロッパ・トルコ領を、コンスタンチノープルを含めて併合するというのである。この理念のないイギリス秘密外交がしばしば他国の疑惑を誘うのだが。
ともかくこの攻撃の遅滞はトルコに準備の時間を与えた。

ガリポリ上陸戦

一方ハミルトンは上陸作戦の準備にかかったが、積み荷の順序が上下逆など不測の事態が相次いだ。ハミルトンの軍はなお公式にコンスタンチノープル遠征軍と称されていた。せめて地中海遠征軍に変更するよう迫ったが、官僚の壁は厚かった。

敵前上陸は上陸地点を秘するのがそもそも最大の作戦であるが、この時はまだその戦訓は確立していなかったのだろうか。(うまくゆけば敵前にならない。)とにかくガリポリ半島に上陸することは敵味方いずれも自明とする奇妙な上陸作戦が始まった。

ここでANZAC(アンザック)軍団(オーストラリア・ニュージーランド連合軍団)が登場する。アンザック軍団は開戦と同時にオーストラリア人とニュージーランド人で編成された軍団で、両国とも徴兵制がないためすべて志願兵で組織された。志願制は日本と比較すると想像が難しい。要するに1945年までの日本は当時の基準からも著しく戦争(かつ長く厳しい)の多い国だった。ほとんどの国は第1次大戦以前、長い間戦争を経験していない。オーストラリアには開闢以来戦争はない。この条件で志願となると戦争と長距離旅行、訓練(実弾発射つき)、冒険とないまぜとなる。

アンザック軍団

このため常備軍・徴兵軍と異なり、訓練が必要でエジプトに駐留し待機していた。またアンザック軍のエジプト輸送までの護衛には日本海軍が当たっていたことはあまり知られていない事実である。

アンザック兵士はまた帽子が平折れでまた片側をひもで止めていた。この異相はイギリス本国軍の軽蔑(日本海軍水兵はこれが戦闘服と思えなかったらしい。)を誘うに十分で、本格的戦闘に耐えるとみなされなかった。1999年の東チモール派兵でオーストラリア軍司令官が相変わらずこの帽子をかぶっているのは微笑ましい。

アンザック兵士

キッチナーは上陸部隊がすぐに半島を占領し、トルコを降伏させ、あとはマルマラ海クルーズを楽しみとすればよいとみていた。この作戦にアンザックを用いる事は遠来の未訓練の部隊にとり良い機会だと。

ハミルトンは全部隊を3分割し、イギリス本国部隊は最南端から北上する、フランス軍は陽動作戦で対岸のアジア側に上陸しすぐ撤退する、アンザック軍はやや北西の離れた地点に上陸し本体の到着をまつ、という機能をもたせた。

一方リーマンサンダースは全部隊を二分し、一方を半島の北部付け根のブレアーに、他方をアジア側に配置した。これは完全な失敗でハミルトンに裏をかかれた形となった。

4月25日未明、上陸作戦が開始された。アンザック軍団は当初予定のガバテペに向かったが潮流におされやや北の名前のない入り江に上陸した。ここはその後アンザック入江と呼ばれるようになる。周囲に敵兵はないが、海岸まで段丘が屹立し、上にあがらねば何もわからぬ地形だった。はって上がり、さらに進むとあやしげな高地があり敵兵はいたがアンザック兵をみると逃げ出した。

しかしトルコ軍の遠方からの砲撃は徐々に照準が合い、海岸の上陸地点に命中しはじめた。後続の兵は被害を受けつつあった。しかし高地にあがった兵も、ときおり来る狙撃兵の銃弾に身を隠すだけで、何をしたらよいか見当がつかなかった。地図は古くまた細かい地形は省略されていた。地形はところどころ岩盤が露出している他、トゲのある潅木で覆われていた。無数の干上がった裂け目が谷を走り、その都度飛び越えるか、下に降りるか判断を迫られた。

一方その高地には未来のトルコ近代化の指導者、ムスタファ・ケマルがいた。ケマルは逃げる兵を制止し、なんとか散兵線を作るのに成功し増援を待ったと回想録に書き残している。

ムスタファ・ケマル

イギリス本国軍も同時に南のヘレス岬周辺5ヶ所(SVWXY各ビーチ)で上陸を開始した。VビーチとWビーチ以外敵兵はなく、無血上陸に成功した。しかしWビーチでは高地に陣取る少数の機関銃部隊と後方の海岸砲から射撃を浴び、狭いハシケに折り重なっていたランカシャー連隊は下船するなり大被害をうけた。

Vビーチでも石炭船リバークライドをそのまま砂浜に座礁させ、それをカバーとして突撃する作戦がとられたが、海岸は広く崖の上からくる機関銃に大きな被害を出した。

それでも午後には5ヶ所の上陸地点はすべて連絡がつき、内陸に進む部隊も現れた。しかし統一した指揮が地形上難しいのはアンザック軍団と同様だった。トルコ軍も時間がたつにつれ増援を得て、海岸線への砲撃は密度を増していった。砂浜のイギリス軍の集結地は間断なく砲火にさらされた。

MAP

翌日4月26日までに英仏軍は2ヶ所の橋頭堡に3万人の兵を送り込むのに成功した。しかし二日間で戦死傷者は2万人に達した。これは2週間の硫黄島での米海兵隊の戦死傷者とほぼ同数である。しかも被害は引き続いた。

その後戦闘は、クリチアという寒村をめぐって争われた。そして西部戦線と同じように塹壕が掘られ、狭い地域に密集した兵が戦った。密集度はあるいは西部戦線を上回った可能性がある。なにしろ敵味方の塹壕が25メートルしか離れていない場所があった。

4月28日と5月6日英仏軍はアチババ高地の奪取を狙い攻勢をかけたが二度とも失敗に終わった。しかしトルコ軍の被害も大きく、英仏軍を上回ったといわれる。

英仏軍の野営地はひどい状況で、赤痢が大量に発生した。砂浜が危険なので、野営地は段丘の崖をくりぬいた穴居が利用されたが、便所の設営が難しくまた戦死者の遺体の処理が間に合わなかった。このため蝿が大量に発生した。兵士の手記によるとどこの外国でも見た事のない大型の蝿だったらしい。そのうえ補給も天候に左右され、食事は乾いたビスケット、船倉に何日もたまった水でつくった紅茶とたまに硬い肉のはいったシチューだった。

この塹壕による戦線膠着はアンザック入江も同様で、砂浜が小さい分さらに野営の困難さは増した。6月4日アチババ高地にむけ第3次攻勢が3万人を動員してかけられた。約1.6kmの前線にこの人数であるから、戦いは凄惨を極めた。トルコ軍はここで囮の塹壕を用意した。イギリス軍が攻撃してくると一旦引き、囮の塹壕に入った敵に照準を固定した砲火を浴びせるという手である。

ところが囮の塹壕にイギリス軍が入ったとたん、味方砲火の誤射を浴びせられ、たまらずすぐに元の線に戻ってしまい、効果はあがらなかった。しかしこれはこの後登場する縦深陣地戦術の要諦と一緒であり、トルコ軍の優秀さが伺える。戦いは終日続いたが、イギリス軍が200から500ヤード前進しただけだった。

このあと6月6日トルコ軍が反撃に出た。しかし英仏軍は猛攻に耐え、戦線は全く移動しなかった。これで第2次クリチアの戦いは終了した。戦死傷者は英軍4500仏軍2000土軍7000合計13500人といわれる。

一方ドイツ海軍はジブラルタルを経由してただ1隻のUボートをエーゲ海に忍び込ませていた。5月25日このU−21(艦長ハーシング)は白昼、両軍兵士の見守るなかで戦艦トライアンフを雷撃、轟沈させた。あまりの壮絶な光景に一瞬砲火が止まったといわれる。そしてハーシングの功業はこれで終わらず、翌日別の戦艦マジェスティをも撃沈した。

この攻撃はロンドンの軍令部を萎縮させるに十分だった。ただちに戦艦4隻が北海に戻され、海峡突破作戦は最終的に放棄された。そしてトルコ軍をあれほど恐怖に陥れた、戦艦による艦砲射撃にも終止符がうたれた。

6月、7月ヘレス岬ではクリチアに向け、ガリースパー渓谷をめぐる攻防戦が戦われた。アンザック入江では海岸から直立するアナファルタ丘陵の南部に連なるサリバイール高地の攻防戦が行われた。いずれも消耗戦で数百ヤードの取り合いに終始した。

スブラ湾への増援

キッチナーはこの打開として5個師団を増援軍として派遣する事を決め、そのうちの3個師団をアンザック入江の北部、スブラ湾に上陸させる事にした。そして上陸軍団の司令官にストップフォードを任命した。軍団の司令官には中将が任命されねばならなかったが、この時退役も含めてイギリスには二人しか中将がいなかった。ストップフォードはそのうちの一人だが、実戦経験は一度もなく、軍政と参謀任務を担当した軍官僚にすぎなかった。

8月6日上陸作戦の陽動として、ヘレス岬とアンザック入江両方で攻勢に出た。アンザック入江ではニュージーランド部隊が好調に進み、遂にサリバイールリッジ中最高峰の一つ、しゃくなげ高地に達した。そこから見るダーダネルス海峡の狭隘部は絶景でかつ360度の視界が利いた。しかし出発地点を見下ろすと、トルコ軍の反撃で、オーストラリア兵の死体が折り重なっているのが見えた。頂上にいても増援が期待できず、僅か3時間で北方に撤退した。実はこれがイギリス軍の最大進出線で、再びダーダネルス海峡狭隘部を陸上から目視することはできなかった。

8月6日深夜から上陸が開始された。スブラ湾にいたトルコ軍はわずか1500人で上陸軍が本格的と知るやすぐに後方に退いた。陸続とイギリス軍3個師団約5万人が続いたが、作戦期間中具体的な命令はほとんどなかった。

現在のANZAC入江

ストップフォードは駆逐艦ヨンキルにいたが上陸部隊と連絡がつかず、ただ全軍の上陸が完了したかどうか気にするだけだった。上陸した部隊はする事がなく、ときおり発射される狙撃手の弾丸におびえ、周囲に塹壕を掘り始めた。リーマンサンダースはどこかは不明にしても増援軍派遣の情報は事前に得ており戦略予備隊を後方に保有していた。8月7日この予備隊はサリバイール高地に向けられた。

8月8日ハミルトンは上陸軍の動向が不安となり、スブラ湾に赴いた。ストップフォードはあわてることはなく、重砲隊の準備が完了するのを待っているところだ、と答えた。致命的なミスだった。前面に敵は少数を除きいなかった。ガリポリ作戦最大のチャンスはこうして失われた。

8月10日ケマルの指揮するトルコ軍はサリバイール高地に布陣を終わった。そこから海浜部への砲撃は簡単で機関銃射撃ですらも効果的だった。この日からの激戦が実質ガリポリ戦の天王山だった。ケマルは、エンベルと同年齢だがその軍事作戦の着想および部隊指揮ははるかに凌駕していた。ケマルは常にイギリス軍の目線のうえに布陣させた。イギリス軍が10フィート上昇するとトルコ兵は12フィート上昇し、先頭のイギリス兵の小銃は常に上方に構えねばならなかった。トルコ軍の塹壕は等高線に沿って屹立し、ついに難攻不落を実証した。

しゃくなげ高地周辺で孤立していたアンザック軍もさすがに持ちこたえることができなかった。戦闘は23日まで続いたがイギリス軍は結局2万人に及ぶ戦死傷者を出し海浜部に閉じ込められた。この他に2万2千人が赤痢・チフスに倒れ、エジプトのアレクサンドリアは負傷者と病人で埋まったという。8月14日キッチナーは真の勇者が指揮をとるべきだとして、ストップフォードを革職した。アンザック軍団は8月一杯戦いを続けたが、ついに良い事が起きた。スブラ湾上陸部隊と交代しようやく休暇が得られたのだった。オーストラリアをたって9ヶ月、半数の同僚が失われていた。

アンザック兵士がスブラ湾に戻ると天気が劇変していた。9月にはいると、強風の季節が到来する。戦闘はつづき毎日300人を越える兵士が負傷または赤痢・マラリヤ・チフス・精神疾患などの病気で後送された。10月になると寒気が増すとともに、驟雨が襲ってきた。しかしこれには良い事もあり、雨があがると蝿が全滅していた。

10月14日閣議で、ガリポリ作戦の去就が検討された。ブルガリアがドイツ軍によるゴルリッツ突破作戦の成功を見て、中央同盟国側につくことがはっきりした。そしてフランスはセルビアへの支援を目的としてギリシャ領内サロニカへの派兵を決めていた。イギリスとしてフランスのサロニカへの派兵要請は断りにくかった。結論は出せず、ハミルトンの更迭と後任にモンローをあてることだけが、決められた。10月31日モンローは各司令官の意見を聴取したあと、撤退に伴って4万人の損失が見込まれる。しかし撤退より他にないと、報告書をまとめた。キッチナーは直接ガリポリに行き、結論をだすことにした。

11月14日キッチナーはガリポリに到着、撤退の意思を固めた。アンザック入江とスブラ湾を第1陣、ヘレス岬を第2陣として撤収することが決められた。

12月19日から20日波のおだやかな深夜スブラ湾で撤退がすすめられた。アンザック兵はトルコ人になんの恨みもなかった。またトルコ兵はフェアーな戦闘態度で、例えば病院船に砲撃することは絶対になかった。一人のアンザック兵は、最後に「長くお世話になった。ここは全部君たちのものだ。オーストラリアより愛をこめて、」と書き廃棄弾丸で止めて残した。トルコ軍将校がこれをみつけ、生涯の記念としたという。

翌年1月9日までにイギリス軍はガリポリから全て撤退した。撤退作戦そのものは比較的うまくゆき、大量の武器・弾薬も含めて、一兵の損失もなく撤収させる事が出来た。このガリポリ上陸戦で英仏軍の損害は252、000人トルコ軍は251、000人と公式記録は伝える。

ガリポリ作戦の失敗の主因は奇襲性確保の失敗と兵力の逐次投入にあるといわれる。しかも当時の技術力では大量の兵員を上陸させることは不可能で、上陸用舟艇(大発)すら開発されていなかった。このため上陸した兵士は少数ずつにならざるをえず、また敵軍がいる限りでは海浜塹壕戦となるしかない。恐らくトルコ軍の戦闘意志を軽視しすぎたのだろう。

今ガリポリ半島は、もちろんトルコ領であるが以前と同じように、訪れる人もあまりいないようだ。イスタンブールから自動車となるが、古戦場は実際戦闘があったのごとく保たれ、塹壕もほとんど破壊されていない。第1次大戦の古戦場で最もよく保存されているといわれる。ただし不発弾が残り危険はある。

現在のヘレス岬



Ashmead-Bartlett, E., The Uncensored Dardanelles, London, 1928
Denton,K.,Gallipoli: One Long Grave, Sydney, 1986
Haythornthwaite, P.J.,Gallipoli 1915: Frontal Assault on Turkey, London, 1991

Moorhead,Alan, Gallipoli,N.Y., 1986(邦訳) ガリポリ 小城正訳 フジ出版 1986
James, R.R.,Gallipoli, London, 1965
Wester-Wemyss, Admiral, Lord, The Navy in the Dardanelles Campaign, London, 1924

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