コンラートの作戦
オーストリアは最も早くセルビアに宣戦したが実質的な戦闘に入るのは最も遅れた。戦闘の指揮は参謀総長のコンラートがとった。ホフマンはコンラートを優秀な作戦家だが率いる軍が無能だった、と評するがあるいは逆かもしれない。
オーストリアの戦争準備は対ロシアと対セルビアと対イタリーの三方面を仮想敵としていた。宣戦と同時にそのうちセルビア・ロシア同時戦の動員が発動されるが、実際は大混乱だった。またコンラートは様々なケースに応じての動員の計画は持っていたが、ロシアに向かっての作戦計画は持っていなかった。
コンラート
二正面作戦となればすぐにどちらに攻勢または守勢に出るか、両方かの問題になるがコンラートはセルビアには攻勢に出ることは決めていたがロシアにたいしては即興的に対処した。結果としてはバルカンではセルビアに攻勢に出たにもかかわらずセルビア軍より劣勢な軍しか組織できなかった。
まず蹉跌は鉄道輸送から始まった。コンラートの戦前の計画は全軍を3挺団にわける。すなわちA挺団を対露ガリシア向けとする。次にバルカン挺団、これは南部セルビアへ向かう。最後のB挺団は待機し、情勢によりどちらかに振り向けるというものだった。
コンラートから詳細な処理を求められた鉄道官吏はひどく安易な解決策をとった。とりあえずA挺団とバルカン挺団をそれぞれ目的地に運び、B挺団はどこかに待機させればよい。
7月25日セルビアへの最後通諜が拒絶され、ただちに動員を開始し7月28日セルビアへの宣戦布告となった。この段階でコンラートはバルカン挺団とB挺団の編成−集結を南部すなわち対セルビアに行う。ところがロシアの介入が見込まれるとコンラートはA挺団のガリシアへの集結を求める。これは前述のように始めはB挺団が待機の予定だったから事態を複雑化させるに十分だった。
この問題で鉄道官吏が頭をひねっているうちに別の問題が起きた。ドイツの小モルトケが当初ロシアに全力で当たれないかと要請してきた。軍事的には当然だろう。コンラートは応ずる他なかった。
そしてB挺団もガリシアに集結する命令を出した。これは理屈はともかく耐え難い命令だった。すでにB挺団は南部に出発していた。鉄道の多くはウイーンかブタペストを経由していた。一旦出征の歓呼を受け、首都を出発し戦地に向かったのがまた首都に戻ってくる。それだけでも相当噴飯ものである。その上1挺団は待機で組まれていたから、こうなるとオーストリアの鉄道能力を超えていた。
オーストリア総動員の失敗
ここでわかるのは、コンラートはセルビア戦を中心にこの戦争を考えていたという事実だ。コンラートは以前から対セルビア予防戦争の主導者であり局地戦だけを念頭に置いていたのではないか。やはり局地戦のつもりが世界大戦を招来したという結論になる。コンラートは少なくとも対イギリス戦は夢想だにしなかった。
それでもコンラートは大国の宣戦布告の重大性は認識すべきだったろう。この後もう一度全世界はへんなオーストリア人に震撼させられる。ポーランドへの侵攻がイギリスの宣戦を招くとは思わなかったヒトラーに。
コンラートはそして奇怪な指令を出す。動員開始日を8月4日に変更したのである。当初15日間で動員が終了するといったことにつじつまを合わせたかったのだろう。一番早く宣戦を布告したオーストリアは動員を完了させたのは一番遅く9月第1週だった。もちろんそれまでにタンネンベルグの戦いやフロンティアの戦いは終了していた。
この動員と集結の遅れがオーストリア軍のガリシアでの敗北の一因となった。ガリシアの首都はレンベルグ(現ウクライナ共和国ルウォウ)でやや東に偏していた。同時にレンベルグは交通の要衝でもあるが、実際のところ鉄道はそこで終了しているといった方がよい。集結自体は当初レンベルグ中心に行われる予定だったが鉄道の混乱によりレンベルグまでの途中下車を多数の部隊が余儀なくされた。
オーストリア陸軍
このガリシアというのは古くからハンガリーの殖民地のようなところでハンガリー本体とはカルパシア山脈で隔たっていた。住民はルテニア人で東ウクライナ語を喋る。この東ウクライナ語というのは正統(?)ロシア語の方言で、ルテニア人とロシア人は会話で意志の疎通ができたという。都市住民はドイツ語を喋るがポーランド人が多く共通語としてドイツ語を利用していた。これは現在でも中部ヨーロッパで広くみられる現象である。
文化的にはともかく人種的にはロシアとそもそも共通性のある土地柄だった。ロシアとの国境線はほぼ半円をえがいており、東に行くかそれとも北に行きワルシャワをめざすか難しいところである。その上交通は道路鉄道共に未発達だから目標となる線は殆ど存在していない。最も自然障害ともなる河川は別であるが。
コンラートはレンベルグからサン川までバラバラに部隊が展開しているのをみて、東は防御姿勢をとり北に向かい攻勢をとることにした。この方がドイツ軍と連絡がとりやすい上、西からの側面攻撃は防げる。その場で決めるというのは即興としてもひどいが、攻勢に出るのであればそれしかないだろう。そしてドイツ軍との連携作戦計画もなかった。
初めに到着したA挺団の第1軍(ダンクル)と第4軍(アウフェンブルグ)を北に先行させた。ところが両軍団とも出発時3個軍団の編成で1個軍団が欠けていた。第4軍は4個軍団の編成であるが1個軍団は動員の混乱により未着だった。
クラスニックの戦い
8月19日つまりコンラートが設定した動員終了日に第1軍と第4軍は国境を越えポーランドの首都ワルシャワ方向をめざした。この時点でロシア側はオーストリアの動きが殆どつかめていなかった。ロシアはオーストリアがガリシアを死守すべくガリシア東部レンベルグ付近に主力軍を置いていると判断を誤った。間諜により、途中掲示の情報は得たがオーストリアの鉄道の混乱までは察知できなかった。
ロシア軍はニコライ大公のもと、南西軍を組織し司令官にイワノフ、参謀長にアレクセイエフが任命されていた。ガリシア戦線でのロシア軍の作戦はアレクセイエフの手になるもので、動員のスピードにおいては従来のロシア軍の常識を上回る早さで集中を成し遂げる。
アレクセイエフ
まず強力な第3軍(ルツスキー)と第8軍(ブルシロフ)を東からレンベルグに向かわせていた。ロシアのポーランド領内の第4軍(サルツァ)と第5軍(プレーベ)は弱体で3個軍団編成だったからロシア1個軍は偶然オーストリアの1個軍とほぼ同等だった。ただオーストリア軍は20日以降集中を終えた部隊を北行させた。
総合的に見ると、オーストリアはガリシアに37個師団を集める予定だったが、6個師団(第2軍ベーム・エルモリと北行軍の一部)は未着だった。一方ロシア軍は45個師団で2個師団が未着であるが更にワルシャワで第9軍(レチツキー)を編成中だった。量から判断すればオーストリアが攻勢をとることは初めから無理があった。
ところがコンラートはひどく強気で、北行軍の士気も高かったという。8月19日にまた手回しがひどくよいというかワルシャワ総督にコラード子爵が任命されている。両方とも騎兵を索敵にあててはいたが、このポーランド中央部はいたるところに広大な森があり、また見通せる道路もなく行軍が困難なところだった。
MAP(ガリシア緒戦)
8月23日ロシア第4軍(サルツァ)とオーストリア第1軍は突然クラスニック付近で遭遇した。不運だったのはロシア軍で第4軍に属する第14軍団がオーストリア2個軍団に包囲の形で戦闘に入ってしまった。そして西にいた友軍とは約30kmと一日行程離れていたからたまらず、8月25日までにルブリン方向に敗走するに至った。
ロシア砲兵
コンラートはこれで自信をつけ更に北進を命じた。ロシア側は恐慌に陥りサルツァを解職しエベルトにかえた。そしてワルシャワ付近で編成中の第9軍(レチツキー)をワルシャワから鉄道で急遽ルブリンに派遣することを決めた。これから第1次大戦の典型的なパターンが発生する。つまり仮に突破に成功しても後は徒歩でしか進めない。ところが突破された側は鉄道で弱い地域に増援軍を派遣できる。このため戦線が破られても復旧は容易なのである。攻勢側はローマ時代と変わらぬスピードでしか動けないが、防御側は鉄道時代のスピードで移動できた。
コマロウの戦い
オーストリア第4軍(アウフェンベルグ)の方も好調だった。8月26日北に進む第4軍と南西方向に進むロシア第5軍(プレーベ)とコマロウ付近で同様に不定期遭遇戦となった。人員、砲数ともほぼ同一だった。3日間にわたる歩兵同士の戦いでオーストリアがやや有利に進めたが、決着をみず、アウフェンベルグは隣の第3軍(ブルダーマン)に救援を求めた。ブルダーマンは第14軍団(フェルディナンド大公)を派遣した。これにより戦況は一挙に好転し、8月31日までにロシア第5軍に40%に達する被害を負わせた。戦いの女神は明らかにオーストリアに微笑んだかにみえた。
旧軍「統帥参考」とガリシア緒戦
ツロタリパ河畔の戦い
ここで更に南部レンベルグ方面の転じると、ロシア第3軍(ルツスキー)が4軍団共密集しながらゆっくり西進していた。ルツスキーはひどく慎重な男で、鈍重を絵でかいたような人物だった。
MAP(ツロタリパの戦い)
一方ブルダーマンは劣勢にもかかわらずレンベルグを飛び出しこのロシアの鈍重第3軍に攻勢に出た。戦いは8月26日から28日にかけてツロタリパ河畔でおこなわれたが、兵力差に押されオーストリア軍の惨敗に終わった。ブルダーマンは少なくとも第3軍に送った第14軍団の復帰を待つべきだった。第3軍は一旦グニタリパ川で停止したが再度敗れ、算を乱してレンベルグに逃げ帰った。
8月29日ようやくバルカンから兵が到着し形がなった第2軍(ベーム・エルモリ)も第3軍に追いつく形で同様にロシア第8軍(ブルシロフ)と衝突した。こちらの方はもっと単純に敗北し2日でレンベルグに逃げ帰った。
ツロタリパ川をわたるロシア第8軍。
東部戦線は鉄道が希薄で行軍は架橋も含め土木工事だった。
レンベルグの失陥
コンラートはここで奇想天外な策を考え出す。第3軍(ブルダーマン)と第2軍(ベーム・エルモリ)をレンベルグから西に撤退させ、侵攻してくるロシア第3軍(ルツスキー)と第8軍(ブルシロフ)に追わせ、その側面を第4軍(アウフェンベルグ)に攻撃させようというのである。
この作戦は参謀本部の地図上ではうまくいくかもしれないが、事実上はナンセンスである。仮にロシア第3軍の包囲に成功したとして第8軍はどうするのだろうか。またロシア第5軍は打撃を受けたがまだ存在していた。オーストリア軍のレンベルグ撤退により9月3日ロシア軍は無血入城を果たした。
ポーランド南部はコンラートの予想に反し、しかし第1次大戦の常識通り進んだ。補給の伸び切った第1軍(ダンクル)はルブリン前面まで進んだが有力な敵軍、ロシア第9軍(レチツキー)と第4軍(エベルト)に反攻され前の戦場のクラスニックで大敗を喫した。
第4軍(アウフェンベルグ)の方も本軍が包囲のため南に向かった。ロシア第5軍に対しては第14軍団(ヨゼフ・フェルディナンド大公)のみが残された。その第14軍団にロシア第5軍が襲いかかりこれはもう戦いではなく屠殺だった。9月8日までにポーランド南部に組織として戦えるオーストリア軍は存在しなくなった。
一方ルツスキーはレンベルグにいて町の防衛強化と祝賀会開催の指示をだしていた。そしてコンラートの作戦に従った第4軍がレンベルグに接近すると、全軍を率いて町を飛び出した。これは、この戦いでルツスキーが見せた唯一の果断な処置だった。会戦は9月10日、レンンベルグ北方80キロメートルのラワルスカで行われた。ほとんど無傷で町で給養を十分にとったロシア軍と、ここまで20日間、行軍と戦いに明け暮れたオーストリア軍では勝負は明らかだった。1日で敗れ第4軍はプルゼミスル方向に逃亡した。
コンラートは9月11日、サン川までの撤退命令を出した。この後サン川の維持も難しくなり、プルゼミスル要塞を孤軍として放置しウィスチュラ川まで撤退した。結局オーストリアはガリシア東部全域を失ったことになる。オーストリアの人的被害は40万といわれる。対するロシアは25万だった。この後4年以上戦いは続くがオーストリアはこの緒戦の損失から遂に回復できなかった。

Jukes, G., Carpathian Disaster: Death of an Army, London,
1973