開戦と同時にドイツはシュリーフェンプラン(改)、フランスはプラン17を発動した。そして驚くべきことだが双方とも相手の作戦または動向について全く意を払っていない。この時代の作戦計画は鉄道ダイヤに基づいているから一度決めたら改変の余地がないと各国参謀本部は考えていた。
この硬直した作戦計画自体が各国の外交政策すら拘束したのは、驚きでなく悲劇だろう。
もちろん改変の余地がないと考えたのは各国の参謀本部だけで、実際は改変の余地はあった。本部付きの参謀は、高級官僚と似た所があって、計画を一度作ると変えたくなくなる習性がある。第2次大戦では戦争のイニシアイブが独裁的な政治家に与えられたからこの種の悲劇は避けられた。しかし極東の島国の提督か提督達は同様のミスを犯したのではないか。
シュリーフェンプランは右翼がベルギーに突進しプラン17は同じくフランス軍右翼がアルザス・ロレーヌに進む。すなわちアルデンヌの森を軸に回転ドアーのように両軍は旋回した。
早い段階でシュリーフェンプランの方がプラン17より優れていることが判明する。すなわちフランス軍の進路にはドイツの要塞線があった。ドイツ軍の進路には小さなベルギーである。もちろん作戦としては優れていてもシュリーフェンプランはかなり確実にイギリスを敵にまわすという負の側面がある。
ベルギーの抵抗によりドイツ軍右翼も行動予定から2日は遅れていた。しかしフランス軍右翼の方は8月20日にはドイツ軍最左翼の第6軍(ルプレヒト王太子)と第7軍(第7軍はヘーリンゲンが指揮官であるがこの時は臨時にルプレヒト王太子の指揮下にはいる)に逆襲され守勢にたつなど、全く成果をあげるのに失敗した。(ロレーヌの戦い)
8月18日にいたり仏軍参謀総長ジョフルは有名な13号命令を出す。これは回転軸のアルデンヌの森を突破し、ライン中流ボン方面に抜けるというものであった。これに成功すればドイツ軍左翼および右翼は孤立し完全な中央突破に成功する。
しかし小モルトケはフランス軍のこの作戦を開戦前から見破っていた。アルデンヌの森前面の第4軍(ウュルテンベルグ公)と第5軍(ウィリアム皇太子)には厚めに配置していた。なんと攻勢にでたフランス軍よりドイツ軍の方の数が多かった。フランス軍はここで惨澹たる敗北を喫する。おそらく最良の兵と最良の将校を失った。これがフロンティアの戦いで中心をなすアルデンヌの戦いである。
その後守勢にたったフランス軍は逆襲にでたドイツ軍左翼の攻勢をよく防ぐ。ここでドイツ軍の主攻(作戦重点)である右翼:第1軍(クルック)第2軍(ビューロー)第3軍(ハウゼン)の前進にフランス第5軍(ランレザック)とイギリス遠征軍(フレンチ)がさらされ、両軍とも退却を余儀無くされた。これがフロンティアの戦いの概要でドイツのシュリーフェンプラン(改)のイニシアチブが発揮された。
戦後に至りとくに英・仏の将軍たちは小モルトケがシュリーフェンの原案を修正したことを非難する。シュリーフェンはドイツ軍右翼に90パーセントの比重をかけることを主張した。これに対し小モルトケは65パーセントと水で薄めたと。
しかしもしシュリーフェンのいうようにしたら、この13号命令でアルデンヌが突破された可能性がある。しかもこれはヒトラーが26年後実施し成功した黄色の作戦−セダン突破作戦に方向は逆だが似ている。
むろん機動力の差が26年を隔てた二つの作戦の明暗を分けた。またヒットラーの黄色の計画では完全な奇襲が達成された。第2次大戦末期ではさらにバルジ作戦またはルントシュタット攻勢と呼ばれるアルデンヌの森をめぐる戦いがもう一度起きた。独・仏がむかいあった場合、アルデンヌの森が中央にある事がその地を地勢的に重要ならしめている理由だろう。
結果をみればシュリーフェンプランは防御力の向上によって達成は極めて困難なのではないか。ドイツの将軍達が戦後に至ってもシュリーフェンとその原案を擁護しているのは奇観だが、英仏の将軍までほめるのは同業擁護の考えだろうか。
シュリーフェンプランをドイツの将軍達はローマ・カルタゴの間のカンネーの戦いになぞらえた。カンネーであるためには敵が正面突破を狙ってこなければ成功は難しい。
ところがフランスのプラン17は広範囲なフランス軍中央と右翼を使った波状攻撃である。すなわち単純にドイツ軍正面に突進しているわけではない。この条件で包囲は難しく、たとえ個々の会戦で勝利しても敵を内陸に押すだけではないか。この時しかもドイツ軍左翼に後退戦術を要求するのは単に戦線離脱をいうにすぎない。フランス軍もまた大突破を狙っているのだ。
フロンティアの戦いでは戦闘が西部戦線を東から西へあたかも津波のように広がった。
1 ロレーヌ
2 アルデンヌ
3 シャルルロア
4 モンス
東から西へフロンティアの戦いは四つの戦闘を総称する。
このうち、モンスの戦いだけイギリス遠征軍(BEF)が関与した。
ロレーヌの戦い
前述のようにフランス軍の第1軍(デュバイユ)第2軍(カステルノウ)がまず8月14日ロレーヌに進軍を開始した。デュバイユはサラルブそしてカステルノウはモランジュを目標としていた。第2軍(カステルノウ)は8月18日にモランジュを射程距離におさめるシャトウサランに到達した。ここまではドイツ軍の反撃はほとんどない。
もともとドイツ軍左翼はシュリーフェンプランに従えば後退戦術を取る事になっていた。より多くの敵を左翼にひきつけ、それを右翼が大鎌をなぎはらうように進み包囲殲滅する。このために左翼は後退しなければならない。
シャトウサランの前面、そこはドイツ軍の要塞地帯だった。鉄条網を先頭に、前方に機関銃座、後方に重砲が待ち構えていた。対するフランス軍の砲は有名な75(75ミリ野砲)だった。この砲は歩兵により移動可能であるだけでなく1887年の設計にもかかわらず性能の良い駐退機がついており発射速度(毎分15−30まで可能)が早かった。
イギリスの18パウンダー(なぜかイギリスだけ砲を口径でなく砲弾の重量で呼ぶ)より5割がた早かったという。75は終戦時まで使われ更に第2次大戦でも仏軍の主力野砲だった。しかし砲撃で敵がひるみ、その間に敵の銃座に突撃するというフランスの歩兵操典は、掩蔽壕にひそむ機関銃の前に全く無力だった。
フランス野砲75
しかしこの攻めダルマにして緒戦で機関銃の威力の前に屈服してしまう。8月20日フランス軍の銃剣による突撃が失敗したあと、ルプレヒト王太子軍は逆襲に出た。シャトウサランはフランスの最も献身的な兵士の死体で埋まった。サラルブに向かったデュバイユの第1軍はもう少し良好であったが、ジョフルは8月20日夕刻第1軍と第2軍に総撤退を命じる。
ウィテルスバッハ家のルプレヒト王太子はノイシュバンシュタイン城をたてたいわゆるルードウィヒ狂王とは直接血のつながりはない。その時代に摂政となったヘンリエッタの子孫で、実はイギリスの清教徒革命の時、処刑されたチャールズT世が属するスチュアート家の直系の子孫にもあたる。更に太子妃の姉はベルギーのアルベール国王に嫁いでいた。
ウィテルスバッハ家はドイツ皇帝をだすプロイセンのホーエンツォレルン家につぐ王家でありまたドイツの一方の中心であるバイエルン−ミュンヘンを統治していた。また当然といえば当然だがウィルヘルム二世はウィテルスバッハ家とは宗教上の問題も加わり疎遠だった。
ルプレヒトはバイエルンの子弟をそのまま率いていた。王太子はバイエルン人に後退戦術というあまり名誉でない作戦はとらせたくない、と主張した。こういった主張にたいし、参謀本部は無力でありドイツ皇帝が調整する問題である。しかし前からウィテルスバッハ家に遠慮があるウィルヘルム二世は結局なにもしないで終わってしまう。ここでドイツの作戦計画は大きく狂うことになる。すなわち左翼が後退しなければならないのに逆に前進してしまうのだ。
こうしてシュリーフェンの描いた片翼包囲によりフランス軍主力をロレーヌ地方に追い込んで、殲滅するという構想は開戦二十日にして費え去った。ある戦史家は、シュリーフェンプランはマルヌの前にロレーヌで失敗していた、と説く。フランス軍をあなどれば、そういった結論となる。だがこの後ルプレヒトは後退でなく前進を開始しフランス軍の防御に阻まれた。仮に後退戦術をとり、国境の有力な防衛線を捨てたとすると、フランス軍に対抗できただろうか。
攻撃は最大の防御なり=攻撃中は敵に攻められる事はない、という格言は機動戦中であればなりたつのだ。もともとシュリーフェンプランに無理があったのだ。すなわち機動戦を拒否するほど防御力が向上したのだ。
フォシュは回想録で次のように書いた。「道は輜重車両とニースに避暑にゆくのか贅沢な車でふさがれていた。8月21日中退却を続けた。ナンシーに着くと皆、ここも皆は撤退するといった。敵はここから2日行程だ。第20軍団がいる限り簡単に通り抜けはさせない、といってやった。」8月23日、フォシュは反攻にでた。ナンシーの北西13キロメートルまでルプレヒト軍は迫ったが、そこで75の斉射を浴びた。あるドイツ軍士官によると弾丸が「ヒョウ」のように降ってきた。
ルプレヒトの攻勢はそこまでだった。一方アルデンヌの森に向かったフランス軍はどうだったか。
アルデンヌの戦い
東から第3軍(ルフェイ)と第4軍(ドラングル)がそれぞれチオンビルとヌフシャトーを目指し北上する計画だった。それぞれ大軍を擁するドイツ軍右翼をジョフルの司令部ではまとめて北方集団と呼んでいた。ジョフルの戦略は北方集団とドイツの本軍とみなした左翼を分断し、北方集団の退路を断つ目論見だった。
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ウィルヘルム皇太子 Friedrich Wilhelm, Kronprinz des Deutschen
Reiches und von Preussen(1882−1951)
ハリー・ケスラーは
「軽騎兵時代には“颯爽とした景気のいい戦争”に憧れ、ストゥネでは、ヴェルダンの敗戦から惨めな姿で帰ってきた連隊に窓からパジャマ姿で手を振り、戦時中もフランス人娼婦を引き連れていたのだが、今ここにいるのはそれと同じプリンスなのだ。この男にはホーエンツォレルン家に伝わる俗悪さがほとんど記念碑的な形で浮き出ている」(『ワイマール日記』松本道介訳、冨山房)と評した。 |
小モルトケはここに仏第3軍にむきあって第5軍(ウィルヘルム皇太子)、仏第4軍に第4軍(ウュルテンベルグ公)を配置していた。ウィルヘルム皇太子は当時弱冠32才であるが極めて攻撃的な意見の持ち主として知られていた。
ベルリンでは皇太子の写真が、「剣のみをもって我々に与えられるべき日の当たる場所が得られる。そしてそれは他力本願では与えられない。」という自身の意見つきで売られていた。5人兄弟の長男であるが他の誰よりも体格的には弱々しくみえた。小モルトケは皇太子が兵を消耗しても勲章かせぎに走るのではないか、と警戒していたといわれる。
ドイツの最高(軍事)勲章 プールラメリット、ブルーマックスと呼ばれるもの。またプールラメリット(Pour le Merite)は「軍功のために」という意味のフランス語で、少し奇妙だ。これはフリードリッヒ大王によって制定されたためで、大王はドイツ語よりフランス語を好み、ボルテールと手紙のやりとりをするなど、フランス文化に心酔した。
フランス軍は第13号命令にもとづき8月21日に前進を開始したが、なんとドイツ軍はそれより早く8月19日に出発していた。
ジョフルはすでにロレーヌでの敗報を受け取っていたが、このタイミングがむしろ奇襲を成功させると考えた。また北方集団とよぶドイツ軍右翼を過少評価し、仮に数が多ければ中央にまわせる兵力がむしろ減少するとみなしていた。
索敵面でも中央のドイツ第4軍と第5軍の予備軍団を同一ナンバーの軍団と混同するという致命的なミスをおかしていた。
アルデンヌは現在もそうであるが地面は泥炭層におおわれ年中霧がたちこめている。そして地形的にはルクセンブルグ方面がやや高く、フランス側から攻めた場合かけ上がる必要があった。ドラングルはこの戦いのあと、「奇襲をかけるつもりだったが、かけられたのは我々だった。」と報告している。
戦いは8月21日の前哨戦ののち8月22日に本格化した。戦場はむしろフランス国境のそばで、西からヌフシャトー、ロシニョール、テインティグニー、ビルトンの4ヶ所であった。ロシニョールでは仏アルジェリア第3師団が包囲され師団長ラフェーンと旅団長ロンドニーが戦死した。1914年では後と違い、将軍がしばしば戦死した。フランス軍はその攻撃精神から塹壕を軽蔑していた。このためシャベルとツルハシをもたず、応急の陣地を構えていたドイツ軍に劣勢だった。それでも75の活躍と突撃とで敵を苦しめている。
第3軍のルフェイはこの進撃の直前になって行われた編成替えに憤っていた。予備3個師団が突然ジョフルの命により、新編のロレーヌ軍(モーヌーリ)に編入されたのだ。
補充部隊はあったものの、ルフェイは戦後もし3個師団があればビルトンの戦いに勝利したと回想している。おそらくそれでも無理だったろう。8月23日はフランス軍全軍敗走の日だった。フィールドグレイ(灰緑)の戦闘服は霧に姿をくらましながらいたるところで、パンタロン・ルージュ(赤いズボン)を追っていた。
それではフランス最左翼の第5軍(ランレザック)はどうであろうか。ドイツ軍の主攻である第1軍、第2軍と第3軍に直接向かい合うことになるランレザックは一貫してジョフル司令部にドイツ軍右翼警戒の情報を流しつづけていた。しかしジョフル司令部は徐々にドイツ軍右翼が強大と認識しても、中央アルデンヌへの攻撃には有利という見方をかえなかった。ここでも予備軍団を前線におくり、フランスの兵力見積もりをたがえさせたドイツの巧さが目につく。
シャルルロワの戦い
ジョフルの第13号命令において第5軍はほとんど不可能な任務を負わされた。すなわちドイツ軍右翼をナミュールまで前進してベルギー軍と共同して攻撃し、一方アルデンヌ突撃軍の側面を確保しろというのである。この二つを両立させるためには、進撃の方向が違うのだから倍の兵力が必要なのは自明であった。
ランレザックはこの時点でジョフルと決裂することは避けられないと考えた。自らの地位のこだわらないと言う点で偉大だ。またフランスのほとんどの将軍はここの所は偉大だった。共和国の軍のためだろうか。ランレザックは命令の矛盾をつきムーズ川西岸でなくシャルルロワに布陣することを司令部に了解させた。
この決意は以降の西部戦線に決定的な影響を及ぼす。すなわち、シャルルロワでなくアルデンヌ寄りに布陣した場合、ドイツ第2軍(ビューロウ)と第3軍(ハウゼン)に挟撃され包囲せん滅された公算が強いのである。そしてイギリス遠征軍も同様の運命をたどったろう。
西部戦線でドイツは当初現役23個軍団と予備9軍団計32個軍団を動員した。これに対しフランスは各軍に配置されたのは現役20個軍団と植民地4個軍団計24軍団である。このドイツの数の優位性がフロンティアの戦いを決定づけた。(イギリス2個軍団、ベルギー3個軍団[換算]を加えても連合国側29個軍団だった。)
ドイツ軍の編制
フランスの苦戦はこの段階になるとややはっきりして来ていた。ランレザックは決して弱気の将軍ではない。しかしこのナミュールに向かう行軍中勝算はほとんどないと自問していた。
8月20日ブラッセルが陥落した。ベルギーのアルベール国王はすでにナミュールにある第4師団を除き全軍をアントワープに撤退させていた。このためブラッセルは無血開城となった。ブラッセルに入城したのはクルックの第1軍とビューロウの第2軍だったが総数32万人の大軍勢の行進は3日3晩続いたという。
その日サンブラ川にランレザックは到達した。すでにナミュールでのベルギー軍の抵抗は限界に近づいており、またイギリス遠征軍とは作戦上の一致も連絡もとれないでいた。
更に仏第5軍は編成上の問題も抱えていた。第5軍は現役4個軍団と予備3個師団で編成されていたが、前進にあたり予備師団は軍本拠地のモーブージュに残置した。予備師団には砲兵隊が配属されてなく、攻撃には向かないとされていた。フランス軍において砲兵(野砲)は攻勢のためのものだった。ただしフランス軍の編制は融通無碍で、一旦ドイツ軍の編制をしるや、予備、後備をどんどん前線に投入をはじめる。
まずナミュールに援軍を派遣した。だがこの日同時にリエージュ攻城戦で使われた42センチ臼砲と30.5センチの砲撃が開始された。
ドイツ第2軍(ビューロウ)はナミュールの攻城にかまわず、サンブラ川沿いに3個軍団でフランス第5軍に猛攻をかけた。8月22日一杯、シャルルロワ付近で両軍の死闘が演じられたが、その日の終わり、ドイツ第3軍が攻撃にくわわった。これでドイツの数の優位性はほぼ二倍となった。
フランス第5軍は北に向かい左からソルデの騎兵軍団、第18軍団、第3軍団、第10軍団、やや離れて第1軍団の布陣でこのうちデスパレの第1軍団だけ防御陣形をとり塹壕線の中にいた。
この段階でドイツ軍は歩兵の突撃に当たり、密集隊形をとっていた。このため75の格好の的となり大きな被害をだした。しかしドイツ軍がひるんだとみるや、フランス軍は同じく密集隊形で銃剣による突撃を敢行した。こんどはフランス兵が機関銃になぎ倒される、という双方にとり消耗戦をくりひろげた。消耗戦となると数がものをいい、夕刻になるとシャルルロワ前面のフランス第5軍の第10軍団と第3軍団が後退を開始した。
ここにハウゼンの第3軍が到着しデスパレの第1軍団に夜襲をかけた。しかしこれは完全な誤りだった。当日のあまりの被害に逆上したビューロウはハウゼンにフランス第5軍の右翼を崩壊させることを依頼した。自らは翌日正面攻撃で残り中央と左翼の撃滅を狙うつもりだった。しかしここでは定石どうり、敵の防衛線を避け、第1軍団の後方に迂回すべきであった。
8月23日、ドイツ軍は結局全線にわたり、正面攻撃をかける状態となった。もちろん二倍の兵力だからジリジリと押すことはできた。
しかしフランス軍右翼、デスパレの第10軍団だけは三倍の敵にたいしむしろ有利に戦いを進めていた。
午後にはいりランレザックのもとに悲報が到着し始めた。ナミュールではベルギーの第4師団が撤退を開始した。アルデンヌでは仏軍総退却のしらせ。さらにソルデの騎馬軍団が後退したためイギリス遠征軍と大きな空隙が生じ、そこにクルックの第1軍が浸透し始めた。
むしろ戦局が好転している第1軍団から、ビューロウの第2軍に側面攻撃をかける案、第18軍団からイギリス軍の救援に向かう案が出された。ランレザックは迷うがここでハウゼンの一部隊がムーズ川を渡河しオナーエで橋頭堡を作ったとの連絡が入った。実際はデスパレの第10軍団マンジン麾下の旅団が銃剣による突撃をもって、ミューズ川に再度ほうり込んでいるのだが。
フランス軍のどの将軍の脳裏にも44年前のセダンの記憶がしみついていた。普仏戦争のときフランス軍は退却の好機を逸し、セダンで包囲されたのだった。ランレザックはセダンを繰り返してはいけないと思った。
夕刻、総退却を命令した。
ランレザックはジョフルに話せば、拒絶するに違いないと考えた。それは違った。総退却を聞くとジョフルは何も言わなかった。そして何もしなかった。あとで命令を追認すらした。しかしランレザックを許そうとはしなかった。
フランスのプラン17はこうして挫折した。そして短期決戦による勝利もついえさった。
モンスの戦い
目をイギリス遠征軍(BEF)に転じよう。
8月9日からフランスのルアーブル、ブーローニュとルーアンに上陸した遠征軍は、地元の大歓迎を受けた。イギリスにとりヨーロッパ大陸に戦闘部隊を派遣したのはクリミア戦争以来だが、僻遠の地で実質的にはワーテルローの戦い以来と言うべきだろう。
その時はフランスを敵にしたわけだが、地元の市民は昔のことは全く忘れ、イギリス将兵を花で埋めた。しかし港でのフランスの儀杖兵は老兵ばかりですでにフランスは戦時体制に入っている事が誰にもわかった。すでに遠征軍の総司令官はボーア戦争の英雄、フレンチが任命されていた。フレンチは8月14日にブーローニュに上陸し、早速フランス側との打ち合わせに入った。一晩アミアンで過ごした翌日、パリでポアンカレ大統領に面会した。この時大統領府には2万人の市民が集まり、「オーレ、オーレ、ビブラングレッテール、ビブラフランス」の絶叫がこだましたと言われる。
しかし会談の方は順調ではなかった。奇妙なことにフレンチは初めから、戦闘にあまり熱心でなかった。遠征の目的はフランスを窮地から救う事だが、その目的に執着しているように見えなかった。フレンチは準備に10日かかり8月24日まで間に合わないと伝えた。ポアンカレは決戦が8月20日にも起こるとみていたので、ひどく落胆した。
翌日8月16日フレンチはビトリーにあったフランス参謀本部で、ジョフルと会談した。記録によるとフレンチは8月21日までには準備が終了すると述べ、前日のポアンカレの時と違っている。
フレンチはこの時ジョフルに好印象をもったようである。ただジョフルはワイン樽製造業者の息子でイギリスの将校出身身分とはやや違っていた。数ヶ月後キッチナーに、フランス将校の出身階級の低さを嘆く手紙をおくっている。
第1次大戦開戦時、将校団でもっとも貴族的なのはイギリスであったろう。そもそも給料が低すぎて貴族以外は生活が困難なうえ、士官学校で使用人が必要など普通の中流市民ではまず無理なように出来ていた。次に位置するのはドイツであるが、将校団を輩出したユンカーというプロイセンの小領主はすでに没落していた。このため、ドイツ将校団はイギリスと異なり、余裕で軍隊に帰属しているというより、世襲的にまた婚姻で結びついていた。ドイツの将校は退役となると恩給を除き全く生活原資から断たれるため生涯軍隊と離れられない。これは忠誠心の点からはよいが、視野を狭める要因となった。
フランスは共和国であるためか、最も開放的でかつ退役後も民間に入る事ができた。ひとつは殖民地が軍政下にある所が多くまた散在しているため軍人が行政経験を積みやすいと言う面があった。
ロシアは西ヨーロッパの諸国とは異なり、全階層で経済的立ち後れがひどかった。将校団の半数は農奴出身(実質は自作農)といわれる。これは土地所有者が政府に学業優秀者を推薦する制度があったことと初等教育が普及していないため、通常の学校ルートでの採用が困難なためであった。
ジョフルはフランスでパパジョフレと呼ばれ、数々の失敗にもかかわらず今でも人気があるが何か人を引き付けるものがあったのだろう。とくに同盟国イギリス、ロシアの人士にも人気があり、これはフランスにとり大きな財産となった。
フレンチは8月17日当面の共同戦線を組む、第5軍司令官ランレザックと会談を行った。これは悲劇を通り越し喜劇だった。フレンチは娘がフランス人に嫁いでおりまたノルマンディーに別荘を持っているにも拘わらず、フランス語は全くダメだった。そしてランレザックも英語が喋れなかった。その二人が密室で二人きりで会談したとある。何があったかは二人とも明らかにしていない。
だが明らかなのはフレンチがまた8月24日まで準備が終わらないと言い出したことである。ランレザックは終始不信感を持って接したことは疑いをいれない。
フレンチがルカトーにある司令部に帰ると思いもかけない報告があった。第2軍団長のグリエルソンがアミアン付近で汽車のなかで急死したというのである。後任のスミスドリアンとは従来から仲があまりよくなかった。
そしてまたその日、ベルギーの本営のあるルーバンでアルベール国王が全軍のアントワープへの撤退と首都ブラッセルの撤収を決意していた。ジョフルはいわゆるドイツ軍の北方集団は陽動作戦のおとり部隊にすぎず、フランス軍は応援に行くのでフランス軍の左翼の一部を形成して現位置に止まって欲しいと要請した。
しかしアルベールはベルギーを横断するに見える大軍がおとり部隊とは信じられなかった。この点ではイギリス軍のフレンチとフランス軍のランレザックともども、直接接することになる司令官達は一致していた。そして不思議なことだが各軍の幕僚は理解せず、むしろ中央からの命令に抗する、変な司令官と見ているのである。やはりトップにあると責任から判断がむしろ的確になるのか、ともかく慎重な判断が各軍を全滅から救うのである。
BEFはフランス軍の最左翼に位置する事はきまっていたから、サンブラ川沿いのモンスに集結し、フレンチはルカトーに本営を設置した。
イギリス遠征軍(BEF)
そして諜報活動に集中しドイツ軍の動向把握に努めたが、集まってくる情報はすべてドイツ軍の膨大さを示していた。フランス情報部からの報告でドイツ軍の捕虜を尋問したところ、開戦直前まで野良仕事をしていた少年がいる、というのがあった。ドイツの予備兵は本国で訓練をしたり補充に備えているのではない。ここにいるのだ。フレンチはとにかく前進は取りやめた。とにかくモンスで24時間踏みとどまろう。
モンスは炭坑町でいたるところに石炭のボタ山と、コークスを作る小さな工場と煙突が立ち並ぶ陰気なところだった。
8月23日、朝6時の教会の鐘が鳴ったころ霧と靄のなかから地平線を埋めてドイツ軍が来た。まだここまで殆ど戦闘体験のないクルックの第1軍の大軍だった。数にして約3倍、しかしイギリス軍とは違い、プロフェッショナルな軍ではない。
イギリス第2軍団(スミスドリアン)はモンス運河沿いに即席の防衛陣地を築いていた。が野砲は到着が遅れ、敵が接近しすぎたため間に合わなかった。イギリス歩兵はライフルの一斉射撃で答えた。この時イギリス軍の射撃速度があまりに速くドイツ軍は機関銃と間違えたという。ドイツ軍はこの時また密集隊形で突撃したため被害は更に拡大した。戦いのあと戦死者を調べると一弾で三人をなぎ倒したケースがあったという。
9時の教会の鐘が鳴ると黒い服を着たミサに出席する人々が家から出てきた。何も変わらない日曜日のように英兵にはみえた。たまらずドイツ軍は野砲を並べ砲撃に移ったがイギリス軍も応射し運河沿いで膠着状態となった。この時もミサが終わった参加者がぞろぞろと教会から出てきたという。
ドイツの砲撃が終了するとまたドイツ兵の突撃がある。イギリスの砲は鳴り止まず、砲弾が炸裂するたびに、ドイツ兵が空中に舞いあがった。午後に入ると大兵を利して、イギリス軍の両脇いたるところで、ドイツ兵は運河を渡り始めた。
それでもイギリスはなんとか戦線を整理しながら持ちこたえる。日没となるとドイツ軍の打ち方ヤメの笛がきこえ、その後世界に冠たるドイツから始まる国歌の斉唱がこだました。
イギリス兵は事態がのみこめなかったが戦いはより多くの被害を与えたことで勝利したのではないかと思った。イギリスではモンスのエンゼルという言葉が生まれ緒戦の勝利として語り継がれた。
しかし夜にはいり一旦は現戦線を維持の命令をだしたものの、ランレザックのフランス第1軍の総退却をしるや初めからフランスの作戦に疑問をもつフレンチも即刻退却の命令をだした。
翌日未明から撤退がはじまった。なぜかドイツ軍は追ってこなかった。ドイツ第1軍は最右翼に位置するため最長距離の行軍を余儀なくされ既に疲れきった軍隊となっていた。戦後ドイツのある将校は追うどころでなくイギリス軍に逆襲されたら、ばかり考えていたという。
この後フランス、イギリス軍は撤退を続けるがとても敗走とは程遠く、秩序ある退却だった。ドイツ軍はたしかに敵を追い払い、ベルギー・北フランスを占領しつつあったが、敵を殲滅する事なく単に押しただけだった。ここでもシュリーフェンプランの問題点が浮かび上がる。
一方ジョフルはプラン17が失敗したことは認めたが、落胆はせず終始冷静であった。このフランスが窮地にある際でも、ジョフルのフランスとフランス兵への信頼は揺るがなかった。
8月24日メシミー陸相に作戦の失敗は作戦そのものにはなく指揮官の無能のためだとする書簡をおくった。メシミーも化石を一掃せよと答えた。ジョフルは戦後にいたるも敵の数は問題でなく攻撃精神の欠如がフロンティアの戦いの敗因だと確信をもって述べている。
ジョフルはこの後司令官の首をすげかえながら、冷静に兵力をドイツ軍右翼前面に集めていく。

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