ドリナ川渡河作戦−オーストリアの対セルビア作戦

ドリナ川渡河作戦−オーストリアの対セルビア作戦

ドリナ川渡河作戦−オーストリアの対セルビア作戦

ドリナ川渡河作戦−オーストリアの対セルビア作戦

ドリナ川渡河作戦−オーストリアの対セルビア作戦

ドリナ川渡河作戦−オーストリアの対セルビア作戦

ドリナ川渡河作戦−オーストリアの対セルビア作戦

オーストリアの対セルビア作戦はガリシア方面にくらべ早期に始まった。これは動員計画と鉄道輸送の(失敗の)結果であり予期したものではない。オーストリアとしてはロシアとセルビアの二正面作戦を余儀なくされたのだが、兵理としては強者であるロシアにまず全力で当たり、その後セルビアを片づけるというのが常道とされる。これは異論も当然あるが第2次大戦でアメリカは日本とドイツの二方向の敵に直面しまずドイツに全力で当たり、その後日本に向かうという方針をとった。強者を打倒すれば弱者は戦闘意志を失うというのである。これの正邪はともかく、当時の軍事ドクトリンとされていた。

オーストリアはこの兵理に反し二正面に予想敵兵力に応じ、均等に兵力を割り振った。結果は両戦線とも相対的に劣弱な兵力しか集められなかった。参謀総長コンラートは、しかし、ガリシアとは異なり、対セルビアでは有力な作戦計画を練っていた。それがドリナ川渡河作戦である。

                       コンラート

第1次ドリナ川渡河作戦

 作戦の要旨はベオグラード方面に少数の兵力で陽動渡河作戦を行い、主攻はドリナ川で渡河するというものである。オーストリアのバルカン方面司令官にはサラェボ事件でフェルディナンド大公と車中で同行したポチョレック・ボスニア総督が任命された。

対するセルビアはプトニック参謀総長が事実上の指揮官だが、開戦時病気療養のためチェコの保養所にいた。セルビアにとって返そうとしたときブタペストでオーストリア官憲に拘束された。ところがフランツヨゼフ皇帝は騎士道に基づき、といって釈放してしまう。これは後で高くつくことになる。

オーストリアのドリア川渡河作戦にたいしプトニックはベオグラード正面の攻勢を陽動と見抜き、全軍を戦略予備として国の北の中心部アランジェロバーツ周辺に集中させた。

8月12日オーストリア5個軍団(10個師団)はドリナ川で強行渡河を開始するが、渡河自体はあまり抵抗をうけず成功し、5個軍団全てにわたり橋頭堡を築くことができた。そして決して早いとはいえないスピードで前進を開始した。

MAP

だが、プトニックは全軍11個師団をドリナ川支流のヤダール川に沿って穿間突撃させた。2日間にわたる戦闘のあとオーストリア軍は完全に分断され中央突破に成功した。8月19日全軍退却の命令が出され、オーストリア軍は再びドリナ川を渡り、両軍ともドリナ川を挟みにらみあう形となった。このヤダール渓谷の戦いは連合国側初めての勝利で、オーストリアの被害は約4万といわれる。

プトニック

両軍ほぼ互角の兵力で正面攻撃に屈するというのは、オーストリア軍に問題があるという結論を出さざるをえない。オーストリア=ハンガリー二重帝国自身、多民族国家であると同時に多言語国家であった。この点でロシアとは異なり、英仏独がヨーロッパでは国民国家だったのとかなり異なる。結局帝国の兵は国民国家の兵に勝てないのだろうか。

オーストリア領内には11の言語があるといわれる。軍隊内で使用されるのは正式にはドイツ語であったがチェコ、ハンガリー連隊ではチェコ語、ハンガリー語が使われた。将校には兵士が多言語を有したからドイツ語以外の言語の習得が奨励された。コンラートは何と7ヶ国語が喋れたという。

この状態では兵士と将校の意思疎通が難しいとしても将校同士はどうだったのか。あるドイツ人将校によるとドイツ人以外で将校になると皆ドイツ人になってしまう、ということらしい。ハプスブルグ家は二重帝国の維持にあたり各民族間の軋轢をさけるため人種の平等策をとっており、この点では今なお評価するむきも多い。

だが実際政治権力を行使したのはオーストリアに住むドイツ人とハンガリーに住むマジャール人だった。そして両者とも他地域・他言語集団よりも優越していたが満足していた訳ではない。

現実に国民国家のセルビアなどが隣接して成立するとこの不自然な中世的な体制が維持しえたのだろうか。やや残酷だが軍事上の弱体化が最終的にトドメをさしたといえなくもない。

第2次ドリナ川渡河作戦

その後両軍はドリナ川で相対峙していたが9月6日オーストリア軍が突然一斉に渡河を開始した。これはむしろセルビア軍の意表をついた。

この作戦を通常第2次ドリナ川渡河作戦とよぶ。渡河作戦とは普通浮き橋・舟艇など準備が相当必要だが前回の資材を流用したためとオーストリア軍は砲の配備が十分でなく事前砲撃ができずむしろ奇襲効果をあげた。

中央部は渡河に失敗したが右翼または上流域で成功し第15軍団と第16軍団が橋頭堡をきづいた。前回とは異なり前進することなく防衛線の中に立てこもったから、セルビア軍も包囲のまま何と2ヶ月がすぎさった。

第3次ドリナ川渡河作戦

11月上旬第17軍団の増派をうけ、また砲の準備も整いオーストリア軍は第15軍団と第16軍団を先頭に橋頭堡から砲撃による攻勢を開始した。これを第3次ドリナ川渡河作戦とよぶ。

セルビア軍は橋頭堡から押され自然に包囲の形となったためたまらず、11月16日までに退却を開始しベオグラード−チャチャクの線まで後退した。

MAP

ここで勝負があったかに見えたが、12月3日、セルビアは突然攻勢に移転した。とくに戦略的に重要なスーボポール高地で濃霧のなか攻撃をうけ、オーストリア軍は壊走に陥った。わずか3日のうちにドリナ川対岸に押し返されてしまうのである。

このドリナ川攻防とはなれてセルビア・モンテネグロ連合軍は10月下旬サラェボを急襲した。これは山間部を通っての攻撃だったが奇襲効果もなくオーストリアのサラェボ守備隊と長期間の散発的な戦闘があったに過ぎなかった。冬期に入り補給が厳しくなりセルビア・モンテネグロ軍は自発的に撤退している。

モンテネグロ王国は例のコソボの戦い(1389)で惨敗し降伏を拒否したセルビア人が建設した王国で山間部を利してトルコ人を拒絶し独立を長らえた。政治は祭政一致または僧侶支配であり君主はセティン大僧正を名乗っていた。

1851年にいたりダニロ二世が政教分離を行い、自ら公子と称し妻帯を行った。以降ギリシャ正教のセルビア王家とロマノフ王家と近親となった。王女はニコライ大公とその弟のミハエル大公に嫁いだ。二人が1914年7月31日、フランス大使パレオログにアルザスの土を見せまた庭のアルザスのあざみの花が宝だといってフランス支持を伝えたのは有名である。

その後マッケンゼンによるバルカン攻勢で1916年1月独墺軍に国土が占領されると国王ニコラスはセルビア軍との同行を拒否イタリーついでフランスに亡命した。この時点でモンテネグロは、ヒンデンブルグによれば唯一の中央同盟国によって滅亡させられた国となった。

1918年11月国土はセルビア軍により開放されたが直後の議会で国王の廃位とセルビアとの合邦が可決された。王党派の抵抗はあったがモンテネグロ人自身で処理され国王の不人気が印象づけられた。最終的にイタリーを除く連合国により合邦は承認され確定した。

この後バルカン戦線は1915年秋のマッケンゼンによるバルカン攻勢まで移動がない。セルビア側はオーストリア官憲により援助をうけたマケドニア地方とコソボ地方の住民蜂起に悩み、それ以上の攻勢にでられなかったとされる。