ブルガリア参戦とバルカン攻勢

ブルガリア参戦とバルカン攻勢

ブルガリア参戦とバルカン攻勢

ブルガリア参戦とバルカン攻勢

ブルガリア参戦とバルカン攻勢

イギリスがガリポリ上陸作戦を実施したことにより、ドイツはトルコに弾薬の補給の必要が生じた。トルコへ陸路での補給はセルビアが立ちはだかり、ブルガリアまたはルーマニアを経由する必要があった。

ブルガリア王家

ブルガリアの国王フェルディナンドはドイツの小邦サクス=コブルグ=ゴータ家の出身で、オーストリア陸軍の将校から国王になった。もともとブルガリアはバルカンのプロイセンと呼ばれ、その尚武の精神は周辺諸国におそれられていた。

ニッシュ近郊で面会するフェルディナンド国王とカイザー

中央同盟国と連合国との間で、ブルガリアの取り込みをめぐって、コンテストとなったが、中央同盟国のほうが優位に立った。というのはブルガリアの宿願はマケドニアの併合にあった。

マケドニアはセルビアが領有していたが、セルビア人はむしろ少数で、ギリシャ人、トルコ人、ブルガル人が混住していた。そして大多数の居住者はむしろ独立を望んでいた。

連合国側はセルビアにマケドニアをあきらめるよう説得したが、セルビアは拒否、ブルガリアの向背はこれで定まった。しかしブルガル人の出身はもともとウラル山脈付近で、ロシアと親近感があり、結果国内には根深い亀裂が走った。

9月6日フェルディナンドはドイツと密約を交わし、マケドニアの領有と引き換えに1ヶ月後の参戦を約束した。ブルガリアは人口600万人だが、52万人が動員可能と称していた。これはバルカン諸国最大であった。しかし内実は近代的国民軍とはいえず、農繁期には兵力が半分になった。それで10月参戦が決まった。

ファルケンハインはブルガリアの参戦に力を得て、セルビアの一挙覆滅とトルコ打通を計画した。

バルカン攻勢

セルビアの防衛線はドリナ川沿いの展開していたが、これをオーストリア後備3個師団だけあて、主力のマッケンゼン軍(ドイツ第11軍・ガルウィッツとオーストリア第3軍・ケーベスで構成)は一挙に首都ベオグラード正面をつく、というものであった。更にブルガリア軍40万人を二手に分け、サロニカ方面と臨時首都ニッシュに向けた。ファルケンハインにはマッケンゼン軍に東部戦線から西部戦線に向かう予定の師団も混入させるなど、余裕の計算があった。

それだけ、西部戦線の英仏の攻勢が迫力に欠けていたことを物語る。ベオグラード正面にはドナウ川があり、渡河作戦を要するがセルビア軍はこれを陽動作戦と誤解しついに有効な反撃を打てなかった。

MAP(バルカン攻勢)

10月12日、マッケンゼン軍は渡河に成功し同日にベオグラードで市街戦に突入した。セルビア軍の抵抗はいたるところで激しかったが、既にセルビアは事実上補給路を失いとくに砲弾が尽きかけていた。10月10日ブルガリア軍が国境を突破、南部でセルビア軍と交戦状態に入った。これは正式宣戦布告の4日前だった。

ギリシャは国王派=中央同盟支持と首相派=連合国支持と分かれ騒乱状態にあった。結局、武装中立を標榜したが、フランスは意に介さず、サロニカに派兵を決断した。
10月12日フランス、サロニカ派遣軍司令官サレイユが到着し、ただちにセルビア救援のため北上した。しかし敵は新たに介入したブルガリア軍だった。その上山岳地帯で、セルビア軍に有効な支援を与える事は不可能だった。

擲弾筒をかまえるセルビア軍歩兵。

場所はサロニカと思われる。セルビアは武器の自製能力がほとんどなく、常備軍29000人を越える兵員のための小銃はロシアに頼った。この兵士の銃もロシア製ナガントである。また服装はプトニックの提唱により、オリーブグリーンとカーキの迷彩服が採り入れられた。しかし開戦には間に合わず、赤青の脅迫色の制服を着た兵士のほうが多かった。ヘルメットはフランス製のアドリアンで、現在でもセルビア軍はこの形式である。ヘルメットの正面にはやや見にくいが、カラジョルジェビッチ家の紋章の双頭の胸に盾をもった鷲がプレスされている。他にセルビア軍は兵站がずさんで、馬車・牛車が中心で機動力に劣った。火力もフランスからの供与が開始されるまでは、劣悪と称されるべきものだった。

アルバニア逃避行

マッケンゼン軍の進軍のスピードは、ゴルリッツ突破の時と同じく遅く、1日12km程度だった。補給困難に加えセルビア軍の抵抗は内陸に進むにつれ厳しさを増した。一方ブルガリア軍は猛烈なダッシュをかけ、セルビア軍とフランス軍の間をクサビのように進んでいった。10月21日までに両軍の連絡を完全に断つ事に成功した。

11月5日ブルガリア軍はニッシュを占領した。これにより、ベルリンからコンスタンチノープルまで再び鉄道がつながった。

ここまで、セルビア軍はプトニックの指導の下、大きな被害を受けたわけではない。11月23日戦局は絶望的ななかで、セルビアは最後の決戦をマッケンゼン軍にプリスチーナ・ミトロビッツアで、ブルガリア軍に黒鳥原(コソボ・ポーリエ)で挑んだ。しかし衆寡適せず敗北しアルバニアへの総退却が命令された。すでに全ての自動車と重砲は放棄され、老齢の国王も4頭だての牛車にひかれ、アルバニアの山中に分け入った。

約30万人の撤退だが、道は険しくまた山賊が横行するなど治安も極悪で、困難を極めた。約1ヶ月半のち、アルバニアの海岸部に到着した時には2万人が失われていた。そこからイタリーとフランスの船舶でギリシャ領コルフ島にわたり、さらにサロニカで英仏軍と合流することになった。

しかしこの頃ファルケンハインとコンラートの間で意見の違いが表面化した。コンラートはセルビア軍のアルバニアへの逃走を許さず追撃を主張した。ファルケンハインは山岳地帯での戦闘困難、冬期作戦の準備不足、アルバニアの中立侵犯および副次的作戦に集中する事の誤りを指摘反対した。更にコンラートはブルガリアの過度の介入を恐れ、ブルガリアのセルビア旧領の駐留地域を狭くすることを主張した。

当然ファルケンハインの主張が通ったが、コンラートは翌年1月単独でモンテネグロとアルバニア北部に侵入、モンテネグロの完全制圧に成功した。これはコンラートの実施した作戦の数少ない成功例だった。

サロニカの英仏軍(主力はフランス)は増強され、30万人近くとなるが、北部への進軍は急峻な山稜を突破せねばならず難しかった。ドイツは連合国のサロニカ駐留を、最大の抑留キャンプと呼び、無害かつ愚かな行為と揶揄したが、1918年最終局面で大きな役割を果たすことになる。



Protic,S., The Aspirations of Bulgaria, London,1915
Ruhl,M., Die Armeen der BalkanStaaten, Leipzig, n.d.

このページTOPに戻る
バルカン攻勢に戻る
ブルシロフ攻勢に進む
に戻る