第一次大戦の兵士


第1次大戦の兵士はそれまでの兵士とは違っていた。兵士とくに英・仏・独の兵士はよく手紙を書き、相当量が現存している。大半の兵士は初等教育をうけていた。論理的に考える力はあった。兵士は塹壕でよく考えた。まぎれもなくこの兵士たちは我々の同時代人である。

この前に長い平和があった。兵士の父も祖父も軍隊にいたことはあるかもしれないが、長期の戦争に参加したことはない。短い行軍だけの戦争か遠く離れた熱帯か砂漠での戦争を経験したにすぎない。

兵士は、自らの利害で戦争に参加したのではない。所領とか官職をもとめて戦った者はいない。皆それだけ理想または義務の観念をもって、戦った。皆戦争が終われば、もっと良い世界ができると信じた。政治家もそう説いた。

もっとも良い世界がどのように出来るかは、よく説明されたわけではない。とにかくこれだけの大事件だから何かある、という程度かもしれない。兵士が兵士となることを決めた第一の理由で各国とも共通しているのは自分の国家の要請に応えたことでだ。徴兵となれば義務だが、義務のない人々も大量に志願したことを忘れてはならない。

兵士の大半は規律に忠実で、前途を嘱望された青年だった。アメリカのパーシング将軍が毒ガスで失明した兵士を衛戍病院に見舞った。若い兵士はベッドから立ち上がり挨拶した。「将軍、敬礼できなくて申し訳ありません。」将軍は「敬礼しなければいけないのは私、私だ。」と答えた。兵士は失明しても規律に忠実であろうとしたのだ。

この兵士の心情が現在では変わったのだろうか。大半の国では変わっていないのではなかろうか。また果たして変える必要があるのだろうか。国家の要請が重いことに変わりはないようにみえる。ある人々はこれを国家主義だと非難する。確かに国家主義に必要な要素だろう。

国家主義(ナショナリズム)

だが国家主義の反対概念の国際主義とはなんだろうか。当然国連中心主義、経済ブロック主義または全方位外交が国際主義ではあるまい。これらは国家主義のなかの一つの外交策にすぎない。歴史に現れた国際主義は、広域帝国の主張が第一だろう。ハプスブルグ帝国は各民族の共存を訴え、多重民族社会の建設を呼びかけた。二重帝国を三重にすることを計画した。それでもセルビアという国民国家が隣接して成立すると、帝国のセルビア人は分離を主張し妥協のない反乱を準備した。関東軍は満州国を保護国(傀儡国家)として樹立、五族協和を主唱した。果たして隣接する漢民族の国家と一緒にやっていけただろうか。言葉を八紘一宇に変えても同じだろう。

次に国際主義が登場するのはプロレタリア国際主義である。これは国家の要請に従うより、他国の労働者階級の人々(具体的には他国の共産党)との連帯を重視し共同して理想社会を作ろうというものだ。これは広域帝国の主張より現実味はなかったが、戦間期、影響力は大きかった。

しかし影響は一部に止まった。理由は単純だ。人々は他国の同じ階級の見知らぬ人々と連帯することよりパスポートの方が重要なのだ。生活を保証する、もしくは破壊するのは一国内の情勢で、現在属している階級と同じ他国の人々または組織に訴えても意味がないからだ。唯一実際に運動体としてあったのは戦間期のコミンテルンで、各国に政権奪取のための支部を置いた。しかしコミンテルン自体はロシア共産党の指導下にあり、ロシア共産党自体の国家主義的傾向を免れなかった。独ソ戦争の勃発とともにスターリンが大祖国戦争と標榜し、国家の防衛を叫ぶと全てが終わった。

近時のECの拡大と活動の活発化をみて、国際主義の新たな動きと評すむきもあるが誤りだろう。ECはみずから国際主義を標榜していないし経済を中心とした、国家連合である。各国民の忠誠は国家にむけられており、ECではない。もしECがそのような役割を果たしたら、どこが主導するかの問題が必ず出る。そのどこが主導する程度の問題が第1次大戦のテーマであったのだ。

第1次大戦の前、ヨーロッパの安定は英独仏墺とロシアの5国が鍵をにぎっていた。そしてヨーロッパが19世紀では世界だった。世界戦争が始めヨーロッパに限定されたのは当然だろう。しかし戦中から新たな要素、日本とアメリカが登場する。日本とアメリカは心底では孤立主義の国だ。ただ日本はアメリカより弱く、ヨーロッパ列強の干渉をうけると極東問題でも屈服せざるを得ないことがわかっていた。

日本は開戦時から参戦国となった。しかし兵はヨーロッパに送らなかった。アメリカは最後まで参戦に消極的だった。しかし参戦するとすぐヨーロッパに兵を送り、それが決定的だった。日本はアジアの東端でかつ北に偏している。しかし歴史の展開では、ヨーロッパの一部として存在しているかのようである。両大戦でヨーロッパの戦局に無視できない役割を果たした。

日本の兵士は海軍の駆逐艦隊の水兵を除いて場所としてのヨーロッパの戦争に参加していない。しかし日露戦争が第1次大戦の直前の大規模戦争であったこともあり、ヨーロッパの将軍たちは皆作戦を描くとき日本兵の姿が脳裏にあった。また日露戦争の日本兵士は世界歴史に始めて登場した考える兵士の先駆けであったようだ。講和結果に不満な市民が東京で暴動を起こしたことは、講和会議での連合国首脳に影響を及ぼしただろう。

兵士たちは戦争を自分たちの事件で皇帝、将軍や政治家のものと思っていなかった。兵士と国民は一体であると誰もが信じていた。どこの国民も自国の陸海軍を愛していた。戦争が終了したとき自分たちの軍隊、子弟が得た戦果を、政治家が妥協して譲り渡すことは許せなかった。

講和会議は議会政治家の手で進められた。しかしその背後には国民・市民が監視していた。ウイーン会議やベルリン会議の時代は終了していた。特権的外交官がカーテンのなかで密談する時代ではなかった。だが講和条約は失敗した。兵士たちの平和、諸国民の平和、または最終的な平和のための戦争を終結させる講和は次の大戦争を準備するにすぎなかった。

そして新しい兵士たちが、平和をもたらすための戦争が再度必要だと言われた時、2度目の現代が始まった。

2001年8月27日AFP=時事通信によると

第1次大戦に参戦の最高齢退役軍人が死亡した。

フランスの退役軍人協会は本日、第一次大戦に参加した退役軍人のうち世界最高齢だったレーモン・アベスカ氏が25日パリの病院で死去したと発表した。109歳だった。アベスカ氏は1891年パリ生まれ。1912年から19年まで第113歩兵連隊に所属。復員後は銀行に勤務した。

2008年3月12日AFP

第一次大戦に従軍した最後のフランス軍人、ラザール・ポンティセリ"Lazzaro Ponticelli"が110歳で死亡、とフランス大統領府(エリゼー宮)が発表した。サルコジ大統領は声明で「生活のためパリにきて、年齢を偽り、新しい祖国の防衛のため16歳で入隊した。再度1921年、フランスに落ち着くことを決めた。2回、フランス人になることを決めたイタリア生まれの少年に敬意を表したい。そして深い感動と無限の悲しみを感じる」と述べた。ポンティセリはイタリアからの移民で、1914年8月に外人部隊に入隊した。当初は国葬を拒否したが、最近「第一次大戦で亡くなったすべての男女の名において」国葬を受理した。

その後、杭打ち工事の会社を興し成功した。


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