帝国陸軍には、明治・大正と昭和の間で大きな破断層がある。
明治・大正にクーデター未遂事件や軍人によるテロはほとんどなかった。ところが、昭和に入ると連年クーデター騒ぎやテロが頻発し、昭和二〇年の終戦クーデター事件でようやく終止符をうった。対立を言論で解決するのではなく、暴力で決着をつける風潮が陸軍軍人の心に蔓延した。
破断層の下には統制経済または社会主義という思想的マグマがあった。戦前の日本は、貧富の格差が大きかったというより、皆がまずしかった。大財閥といったところで、諸外国と比較すれば、その経済力も富の集中も大したものではなかった。
こういった貧しさのなかで、金持ちから奪い、貧困層に回そうと考えた人々が生じることは至極当然であった。その唯一の処方箋が社会主義(統制)経済に見え、そのうえ、官僚の適切な指導によって、産業はより効率的に運営され、経済発展にも有利と思われた。
社会主義とは何か? それは国民の基本的人権や私有財産を、官僚が勝手気ままに社会の利益(すなわち国益)のためであれば制限するなり、収公して構わないという官僚無謬を前提とする一種の徳治主義である。
社会主義は、現状改革が叫ばれると、どこの国でも有力となった。ただし、多くのじっさいに社会主義を採用した国では、議会制民主主義が崩壊し、企業活動の自由が制限され、信教や言論・結社の自由が制限され、陰惨な社会が現出した。
陸軍にも、社会主義(統制)経済を導入し、併せて軍部独裁を実現するためには暴力を辞さずとするエリート軍官僚が登場した。社会主義は独裁と相性が良い。国益や公共の利益の名分があれば反対派を圧殺することが合理化できると考えるのだ。
その先駆者であった永田鉄山が斬殺されると、東條英機ら統制派と呼ばれた陸軍エリート将校が「サーベルをガチャつかせながら」本当に「国家総動員体制」の名の下に、統制経済を実現させた。
捕らわれ巣鴨に拘留された東條英機は、大東亜戦争は「統制」がなかったから、すなわち、首相の自分に全権力が集まってなかったから、大日本帝国は敗北に追い込まれた、と説明した。いくら東條や陸軍官僚に権力を集中させても大東亜戦争は負けであろう。この自分に権力を集中させれば国家の何事も成功するという空想的情念が典型的な社会主義幻想であろう。
明治維新三十七年にして日本はロシアを陸海で打倒し、全世界を畏怖させる存在になった。経済でも、ほとんど無から出発して、今ではGNPで全世界第二位を誇るようになった。二十世紀の世界を見渡せば、日本の後に日本はなく、日本ほど自由主義経済(市場経済)の下、成功した国はない。もちろん、戦前の陰惨な、官憲による、共産主義者や自由主義者への政治弾圧を想い出す人も多いであろう。
だがそういった期間は、大日本帝国八十年の歴史のうち、この社会主義経済体制を採用した昭和一一年からの、最後の十年間に過ぎなかった。日本も例外ではなく、陰惨な社会に転落したのであった。そして、陰惨といえば、現在においてもなお社会主義を採用している周辺諸国も、同じではあるまいか?
経済的困難が起きると必ず、「ブロック経済」「自由貿易反対」が叫ばれる。この点については軍人だけではない。外交と軍事をつなげるのは政治家である。昭和の大日本帝国の政治家には国家戦略があった。戦略とは軍事と外交の長期的方針であって、軍事と外交は一般的に切り離す事が出来ない、表裏一体の関係にある。
太平洋戦争直前の日本の国家戦略は「東アジアのブロック化」であった。日(朝鮮・台湾を含む)・満・支東亜共栄圏が叫ばれ、次に英仏蘭の東南アジア植民地を合わせて大東亜共栄圏が構想された。松岡洋右外相は、英仏蘭に戦勝すると予想されたドイツと連携し、平和的にこれらの国の植民地を横取りするため、日独伊三国軍事同盟を締結した。大国が国家戦略をもつことは、じつは必要ない。明治の大日本帝国の国家戦略は大攘夷であって、独立に過ぎず、戦略はなかった。
なぜ平時に長期的軍事・外交目標を必ずもつ必要があるのか。なぜ外国の出方をみてからではいけないのか。この時期の外交を担った政治家・外務官僚に軍事教育は皆無であり、軍務経験もなかった。ドイツが勝つに決まっていると、この当時の政治指導者は見通し、ヒトラーの国家社会主義経済を熱心に賛美した。
じっさいに社会主義=統制経済が実行されると、民間経済を取り締まり、「効率」をあげ、富と所得の再分配を公権力をもって強制する人物群は、エリート(軍)官僚集団しかいない。彼らの立案した作戦計画・経済計画は、一度でも成功したことがあるだろうか?
日露戦争の満州でも失敗した。統制経済も大失敗であった。社会主義とはじつは官僚至上主義なのである。これだけ無様な失敗を繰り返しても、日本では、マスコミ・学界において、この考え方が主流である。社会主義こそが大日本帝国を滅亡させたのである。
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