日露戦争の陸戦の大半は満州で戦われた。日露両軍とも、緒戦の南山・鴨緑江から奉天に至る会戦で延べ百万人以上の将兵を戦場に展開した。最後の奉天会戦では、日露併せて四十五万の大軍が激突した。それはまさしく、それまでで最大のナポレオン戦争のワーテルロー会戦を抜く、人類史上最大の会戦であった。
彼我の損害という点で勝敗を判定すれば、南山の戦いを除き、旅順攻防戦を含み、日本軍が圧勝した。この日本軍勝利の理由は様々にいわれてきた。中には、司馬遼太郎を代表として、日本軍は兵力において劣ったが、作戦計画能力で上回ったためだとの見解がある。そしてその功績を作戦計画策案を担当した満州軍総司令部の児玉源太郎総参謀長や参謀達に帰するのである。この見解は全く事実に反する。
ロシア満州軍は常に補充に苦しみ、外見からの師団数では日本軍を上回っていたが、大幅な定員未達に悩んでいた。日露両軍の兵力はほぼ互角の場合が多かった。また、日本軍の満州軍総司令部の作戦計画で評価に値するものはない。
じっさいに策案した井口省吾・松川敏胤両参謀は、陸大エリートであって、自己への矜持ばかりで、数個の師団を統合して運用する場合の戦術、包囲・突破作戦について全く研究していなかった。ドイツから招聘されたメッケルに影響され、応用戦術(師団単位の戦闘法)に止まっていたのである。日露戦争陸戦勝利は参謀将校によってもたらされたのではなかった。児玉源太郎の超人的能力によるものでもなかった。
近代戦において作戦計画策定は一人だけの手に負えるものではない。チームでやるしかなく、その場合、情報・連絡・兵站・作戦を担当する参謀が連繋し合い、各部隊への命令から政府との連絡まで膨大な作業をこなす必要があった。そのうえで、作戦参謀は全ての必要を満たす作戦計画を樹立するのである。
それでも作戦計画だけでは戦闘に勝利することはできない。各級司令官は与えられた命令の枠内で、独立して戦闘行動を決心し、それに見合った最適な戦機を発見せねばならない。最後は、戦場にいる兵士の勇気こそが決定的要素である。
日本軍はロバに率いられたライオンであった。日本軍兵士は、世界のどの列強の軍隊と比較しても長距離の行軍に耐え、いかなる粗食にも甘んじ、数倍する敵に直面しても後を見せなかった。戦場にいた指揮官も、参謀本部あるいは総司令部の実際を見ない、独りよがりの作戦計画を現場の実情にあわせ修正、また独断専行し、自ら戦機をつかみ、全軍を勝利に導いた。
それでは誰が日露戦争陸戦の最大の殊勲者であろうか。前半では旅順攻防戦、後半では奉天会戦が決戦であった。旅順攻防線の転機は、塹壕には塹壕で対処し、要塞兵を減耗させる戦術を採用したとき訪れた(並木書房・PHP文庫刊拙著『坂の上の雲では分からない旅順攻防戦』をご参考下さい)。奉天会戦では第三軍が鉄嶺への「大中入れ」を止め、隣接する第二軍と間隙をつくらず、正面を奉天市街に変換したことが転機になり、日本軍が勝利した。
乃木希典がこの二つとも決心した。乃木は大量の軍学書を読みこなした勉強家であって、近代軍事学の原則に忠実であった。第一次大戦ではドイツのシュリーフェンプランは第一軍と第二軍の間が開きすぎたため挫折した。そのあとは、塹壕を挟んで四年半の消耗戦となった。乃木の戦術はこの時代に普遍的に通用した。
乃木希典は奇を衒わず、ただ兵士の生命を損なわず、戦勝へと導こうとした。困難や矛盾から逃げない、現代日本のどこにでもいそうな、実直な融通のきかない老人であった。乃木だけでなく、日露戦争に参加した日本人は現代の日本人と同じような人々であり、皆、英雄であった。
別宮暖朗