歩兵の戦術

第1次大戦では、密集した歩兵が大砲と機関銃にむかい、なぎ倒されて行くさまが浮かぶがそう単純でもない。第2次大戦の北アフリカ戦線のドイツ‐アフリカ軍団司令官、砂漠の狐ことロンメルは「歩兵の攻撃」という著作で第1次大戦時いかにロンメル小隊がフロンティアの戦いで活躍したかを描いている。

「小隊はフランスの陣地にむかい急速前進を開始した。砲弾はいたるところに炸裂したが隊員は左右の味方と協同歩調を失わず、敵陣地に着くとすでにフランス兵は逃亡したあとで、簡単に占領することができた。そして多くの砲弾は観測の失敗のためか頭上を越えるだけで、命中弾はほとんどなかった。」

これに類した記述は数多く残されているが、統計上は第1次大戦の死者の65%は砲弾の直撃または破片によるものとされている。この当時の小隊は50名程度で構成されていたが、記述でもロンメルの小隊は相当密集していたことがわかる。

少なくとも大戦の初期では、独仏とも密集隊形による銃剣突撃が勝利の鍵を握ると確信していた。クラウゼビッツは勝利の秘訣は、攻勢と局地における優勢だと主張した。これは銃剣での突撃に鍵を置いている記述である。

ロンメルの記述にもかかわらず、砲術観測が成功し砲弾が頭上で炸裂し、いっぺんに小隊の大多数がなぎ倒されることも当然あった。この密集隊形の不利はすぐ知られ第2次大戦のように散開することが当然とされた。5人から15人単位の分隊での行動が要求されるには至らなかったが、密集攻撃の危険は1914年中には理解され繰り返されることはあまりなかった。

独仏とも500メートル前後以内では歩兵の突撃により敵を圧倒する戦術が正しいとされていた。更にイギリスの歩兵操典では500メートル以内で突撃すれば敵はパニックに陥り、逃亡するか照準が狂いかえって被害を軽減するとしていた。また第1次大戦の小銃は7.65ミリが中心で重くまた長身で必ずしも歩兵の運動性に配慮がされていなかった。

各国の小銃

だが機関銃による弾幕射撃と小銃の射程距離の向上が事態を変えた。散開攻撃による波状攻撃が考案され時間をおいて攻撃するようになった。しかしこれも密集攻撃と本質は変わらない。つまり同じ機関銃に時間をおいて的(マト)になるだけである。

部隊構成は3隊編成がよいとされていた。すなわち突撃部隊が先頭にたち補助部隊がすぐその後方に控える。後方に前進部隊が敵ラインを突破した際確保できるようにローカルの予備隊を配置する。これが基本だった。

さらにイギリス歩兵操典によればこの攻撃隊は縦深性を必要とした。実際起きたことは、ただ一つの保塁にしゃにむに数波にわたる攻撃をかけ数台の機関銃の餌食に連続してなることだった。塹壕にいる兵がパニックに陥るのは左右の友軍が突破されるなり投降しだすことで、前面に敵が来ても側面が安定しているとなかなか逃げてはくれない。

さらに1ヶ所だけ突破に成功してもその突起部に左右・前方から集中射撃を浴びて維持は至難だった。この歩兵の波状攻撃が機関銃ポストや保塁など塹壕の強化地点をまず奪取しようとすれば、全く前進できずに被害だけ増すことになった。

1915年からの試みは重砲の準備射撃によって、前進壕(普通3線で構成されていた。)を完全に破壊できないかという点にあった。マッケンゼンによるゴルリッツ突破作戦はその構想の実施であった。ところがこれは東部戦線では成り立つが、西部戦線ではなかなか成り立たない。

西部戦線では塹壕が強化されており、砲撃では簡単に破壊できない。地下10メートル以上にある穴倉にもぐればよいのだ。また両軍とも戦略予備が豊富で1ヶ所で突破しても援軍が鉄道で運ばれる。攻撃側は徒歩でしか進めない。更に突起部を作っても敵からの攻撃に弱い場所を作るだけだ。

西部戦線では最後の休戦日にいたるまで攻勢側の進撃スピードが徒歩を越えることはなかった。騎兵が使えなくなった以上これは当然だろう。しかし後方のシャトーにいる参謀たちは大突破を捨てきれない。

連合国はニベル攻勢ソンム戦第3次イープル戦でしゃにむに砲撃に頼った攻勢にでて完全に失敗した。原因は前と変わらず、一点に反復攻撃をかけたことである。多少穴が開いてもたちまちドイツの予備隊に阻止され、小さな不動産の代わりに多大な人命を失った。

単純な突破が困難で、砲撃を増加させても意味がないことはドイツの参謀本部もルーデンドルフも気がついた。しかし西部戦線で数量が劣勢なうちは攻勢に出ることは無理で、1918年までドイツは防御者としての有利な位置を楽しんだ。

ルーデンドルフは、1917年11月、ロシアの崩壊により数量でも凌駕し攻勢に出る機会が生じたと判断した。シュリーフェンの徒として、機動戦・大突破の夢を捨てきれない。

このための切り札としてドイツが考案したのがフーチェル戦術だった。この戦術は実はブルシロフ攻勢の教訓をとりいれて、少数の強襲部隊で3線からなる前進壕を突破し、予備隊を後続させるという方法だった。このため強襲隊・予備隊の前進壕への移動、歩兵の装備の軽量化、準備射撃の効率化、奇襲性の確保が計られた。

フーチェル戦術

しかしブルシロフの方法のうち重要な点、広正面での浸透は忘れられた。ルーデンドルフはブルシロフの方法のうち、歩兵による前進壕の突破のみを考え突破戦術の手段としてしか考えなかった。そして歩兵による突破に限れば占領した前進壕の保持だけを問題にしその後の進行速度はあまり考えなかったようだ。

シュリーフェンの時代は騎兵が有効であるし、またシュリーフェンは実戦経験がなく兵棋演習しか念頭にない。

カイザー戦(第1次攻勢・ミヒャエル)ではイギリス第5軍を全面崩壊に追い込み、前進壕を占拠そこにいた兵の大半は捕虜とした。しかし逃亡に成功した兵士さらに予備壕の兵士は総崩れにならずドイツ兵が前進してくると後退しながら抵抗した。更にフォシュは戦略予備軍を糾合し、イギリス軍の支援にむかわせた。

ルーデンドルフは一旦は成功した。しかし結果は無用な突起部を作っただけだった。この失敗は第1次大戦の幕切れを飾るにふさわしいものだった。ドイツ軍事学の敗北である。あらゆるイデオロギーと同じく時代を超越する方法は存在しなかったのだ。

攻勢防御

カイザー戦の失敗は、連合国の勝利でありまたペタンの歩兵戦術、とくに攻勢防御といわれる方法の効力を裏付けた。カイザー戦の後半期、ペタンとフォシュは攻勢防御を発展させ、攻勢移転と名づけられた逆襲作戦を実施し成功させた。

近代的浸透戦術

連合国は最終攻勢の実施の時、歩兵の強襲部隊をタンクに置き換えた。だが、攻勢の中軸部隊はペタンの歩兵戦術に基づき、あくまでタンクをもつ歩兵師団で後世の機甲師団ではない。タンクと歩兵は仲良く前進した。当時のタンクは人間が追いつけるスピードだった。

攻勢の中心として歩兵があったのは以前の中心が騎兵だとすれば第1次大戦前後の短い期間にすぎない。しかし攻勢のため消耗品として使われた歩兵の犠牲は忘れられることはないだろう。



Rommel,E.,Infantry Attacks, London, 1990
Wintringham,T.,andBlashford-Snell,J.,Weapons and Tactics,London,1973

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