フランスの将軍
父はフランス人、母はイギリス人で、英語を母国語のように話せたという。フランスのトゥール生まれ。戦前のニベルの業績は目立ったものではない。砲術畑を歩み開戦時は砲兵連隊長の大佐に過ぎなかった。だが砲兵隊を率いたときの功績はマルヌ、引き続くシャンパーニュでも白眉だった。
ベルダン戦が開始されたときは中将で軍団長だったが、攻防ともに活躍した。とくに後半期では、ドーモン保塁を再奪取後1ヶ月で失地の大半を奪い返した。これによりニベルはフランス中で英雄となった。
1916年末ジョフルの跡をつぎ、参謀総長に就任した。ニベルは勝利の秘密を知っていると公言した。ニベルの方法は「這う射撃」というもので、二重の意味で間違えていた。第一に「這う射撃」は歩兵の前進に合わせ、射撃を実施するものだが、砲兵の前進は歩兵より遅いため歩兵の前進を制約する。このため突破の深度は限定的である。また狭正面を攻撃すると両側から十字射撃を浴びる。第二にこの方法で突破に成功し機動戦に持ち込めると公言したことである。
しかしこの間違えは、砲を前進させながら大突破をしようとすることに起因しており「這う射撃」のアイデア自体はその後両軍に採り入れられた。ニベルは手のうちを喋りすぎまた戦果の予想が過大に過ぎた。
ニベル攻勢の前にルーデンドルフはヒンデンブルグ線まで自軍を後退させ、その後方に何重もの塹壕を作っていた。このため従来の深度を確保しても突破にはならない。
ニベル攻勢は1917年4月、シェマンデダームで開始されたが、敵に事前察知され奇襲にもならず惨憺たる失敗に終わった。そして戦果の上がらない大量の被害は、大量の兵士の反乱を引き起こした。
5月ニベルはペタンに代わられ、アフリカの意味のないポストに左遷された。

Hellot, F.E.A., Le Commandement de Generaux Nivelle et Petain,
1917, Paris, 1936
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