ロシアの皇帝;開戦直前、大戦の原因の一つといわれるロシア軍の総動員令を発した。二月革命で退位し以降軟禁され、最後はボルシェビキにより殺害された。
アレキサンダーV世の長男として生まれ、イギリスのジョージX世とドイツのウィルヘルム二世とはいとこ同士だった。妻はヘッセ−ダルムシュタット公国の公女、アリックス(アレクサンドラ)。アレクサンダーV世の突然の死去により帝位に1894年ついたが、それまで受けた教育は十分でなかったといわれる。
ロシア帝国はまだ産業革命の以前にあったが、絶対君主制に反対する勢力は根強くまた頑強だった。この反体制運動にたいしニコライ二世は常に弾圧策で臨んだ。
また官僚の任命に当たっても、有能な人物に反感を覚えるという君主としては好ましくない傾向を有していた。始めの危機は日露戦争だった。この戦争も、日本側の奇襲で始められたが、実質は朝鮮に兵を入れ、かつ外交交渉を拒むなどニコライ二世の失策による所が大きい。戦中の1905年に血の日曜日事件が起き、相次いで改革案を実行した。なかでもドゥーマ(議会)に設置は立憲君主制度に道を開くものだったが、ニコライ二世は単なる諮問機関とみなしていたようである。第1次大戦が勃発すると始めは国家主義の高揚とともに、矛盾は一旦消え去ったかにみえた。しかし長期戦化と相次ぐ敗戦により、国内での反戦運動がたかまった。しかし内政を妻のアリックスに任せたため、最後まで国民の信頼を取り戻すことができなかった。アリックスは長男が血友病で生まれたため、その加持祈祷のためラスプーチンを盲信した。二人は内政の責任者をむしろ無能な者から選び、また頻繁に首をすげかえた。
1915年に戦局が悪化、ポーランドから全面撤退を余儀なくされ、ニコライ二世は従来叔父のニコライ大公に任せていた、軍司令官に自ら着任した。これは他の連合国から信頼の厚かったニコライ大公に代わるもので好評とはいいかねる措置だった。それでも1916年はブルシロフ攻勢により、帝政ロシア最後の軍事上の勝利を得ることができた。だが背後では厭戦気分が最早収束が不可能なほど高まっていた。
1917年春、食料暴動から発した、ペテログラードの二月革命は各級司令官の抗命に発展した。最後はほとんど全ての軍司令官がニコライ二世の退位に賛成し、万事休した。革命後成立した臨時政府によりニコライは捕縛され、他の連合国が受け入れを拒絶するなかで、軟禁状態におかれた。秋のボルシェビキによる権力奪取が更に状況を悪化させニコライはじめ一家はエカチェリンブルグに送られた。1918年7月、チェコ連隊の決起により、白軍がエカチェリンブルグに近づくと、レーニンは一家全員の処刑を指示、実行された。遺体は1992年ソ連の崩壊により初めて確認された。
大戦中の業績として、同盟国に忠実だったことがあげられる。国家関係でも普通の人間関係のように解し実行したのではないか。人柄が善良なことは否定できない。
Lieven,D., Nicholas U: Emperor of all the Russians, London,1993 (邦訳)ニコライ二世 帝政ロシア崩壊の真実 小泉摩耶訳 日本経済新聞社 1993
Cowles, V., The Last Tsar and Tsarina, London, 1977