ドイツの軍人;シュリーフェンプランを実施にうつし、自らの先入観念で第1次大戦を事実上開始した。
同名の大モルトケの甥。メクレンブルグ州に生まれる。大モルトケの副官、ウィルヘルム二世の副官等最も華々しいポストを歴任したのち1906年シュリーフェンの後任の参謀総長に就任した。この時、周囲に意志が弱く全軍を統率するには不向きだと語ったという。
このあたりはプロイセンの参謀らしくただサーベルを振り回すだけでもない印象だ。しかし一方では、ベルギーのアルベール国王を午餐会で堂々と脅迫しており、言葉だけにみえ気が弱いは疑問だ。最もドイツの外交言辞はこの当時、周辺国にはすべて脅迫的に聞こえたのかもしれない。
参謀総長としてシュリーフェンプランを手直しした。シュリーフェンの右翼を厚くという遺言のもかかわらず、むしろ均等にわりふった。これは後で旧軍人に非難されたが、ルーデンドルフも積極的に参画し、交通など新しい要素も入れていることを忘れてはならない。ただ原案にある鉈で切ったような明晰さは失った。
そして改正後のシュリーフェンプランは、原案よりもいくつかの点で優れていることも認めざるを得ない。ところが根本にあるドイツ軍事学の格言「当初配置の失敗はあとで取り戻せない。」には従った。開戦後も大本営を前線に置くことなく、後方のルクセンブルグ、コブレンツなどで指揮をとった。始めの配置が妥当であれば敢えて個々の作戦に容喙することはない。鉄道輸送の発展で内戦移動が急速なスピードで可能になり、当初の部隊配置をいかに情況に合わせるかの方が重要になった。小モルトケの開戦時からマルヌ会戦までの問題は、当初の部隊配置でなく、その後の部隊配置の変更を失敗したことにある。
フロンティアの戦いではそれでも右翼は英仏軍に圧倒的に優勢だったが、マルヌ会戦では追い越された。もちろん東部戦線に送った2個軍団も痛いが左翼の変換も行わなかったことは手落ちだろう。ドイツ軍事学に反し当初配置に失敗したフランス軍に敗れたことになる。総合的に情報を唯一集められる立場にあったのだから、失策と言うしかない。
マルヌ会戦の敗北で9月半ば更迭されファルケンハインにかわられた。1915年初頭復職を計ったが失敗した。翌年心臓発作で突然死した。
大モルトケはデンマーク人で、ユンカーではないがプロイセンの国王の幕下にある軍人という意味ではユンカーだろう。小モルトケもユンカーの気質を受け継いで、ポケットにはいつもゲーテのファウストを忍びこませ、またメーテルリンクの独訳をしたという。楽器の演奏でもチェロの弾き手であり美術も愛好した。当時流行したクリスチャン=サイエンスを信仰し導師として信者を率いる地位にあったという。恐らく後参謀本部を牛耳ったルーデンドルフら成績組みとは異なり、官僚世界以外の広がりはあったと思われる。
しかし国家への忠誠がすなわち作戦の効率的実施しかないと考えたことが陥穽だったのではないか。近代的官僚組織の枠を越えることができず、組織の責任者の立場が国益や世界平和より優先した結果だろう。その意味では大モルトケの衣鉢は継げなかったのかもしれない。チャーチルは小モルトケをこう評した。「ごく普通の、むしろ宮内官といった部類の人間で、平和な繁栄している時代に皇帝の寵を得て宮廷に出入りする類の男であった。この(参謀総長に任命されてしまった)不運な人間に、史上で最も偉大な名将ですら戦慄するに違いない残酷で無慈悲な運命が舞い降りてきたのだ。」
チャーチルに異論を唱えれば、この時ドイツは平和で繁栄した時代にあったのではないか?小モルトケの失策は二段階に亘る。一つ目は第1次大戦の口火を切ったいう点、二つ目は東部・西部戦線両方の用兵上の失敗である。そして一つ目も二つ目も常人が小モルトケのとった方法以外をとれたのか、と言う疑問が残る。すなわち小モルトケは計画に従っただけである。小モルトケは実は演習実施と変わらない気持ちで臨んだのだろう。この悲劇を回避するのはどうすべきだったのだろうか。

回想録;Erinnerungen, Briefe, Documente 1877-1916, Stuttgart,
1922
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