アルベールT世 Albert the First
King of Belgians
(1875-1934)ベルギーの国王:ドイツへの抗戦を貫いた。
連合国からドイツに対抗する勇気のある小国の君主とみられた。ただ普通みられるより更に自国の中立維持に精根を傾けていた。
アルベールは前国王レオポルド二世の甥で、サックス=コブルグ=ゴータ家の公子でもあった。母はまたホーエンツオレルン家出身である。
王妃エリザベスはバイエルンのウィッテルスバッハ家出身(二家あるうちの傍流)でオーストリア=ハンガリーのフランツヨゼフ帝の皇妃エリザベス(シシー)の姪にあたり、その名前を継承した。従って現在のベルギー王家は王家として唯一ウィッテルスバッハ家の血統を継いでいることになる。
アルベールの教育は軍人としてのもので、兄の死亡による立太子後、1892年陸軍に入隊した。1909年国王となるが、その時までに中将にまで昇進していた。開戦後半月間ベルギーはドイツ軍右翼の怒涛の進撃にほとんど孤軍で対抗する状態におかれた。しかしアルベールは敵情の把握および防衛戦の部隊編成で、自国のどの将軍より適確な判断をくだし、ベルギー軍の全面崩壊を食い止めた。更に国王としてもドイツの通過要請を断固として拒絶連合国の大義に貢献した。その後もアルベールは中立維持に最大の力点を置き、連合国と一定の距離をおいた。あくまでベルギー軍が英仏軍の指揮下に入る事を拒み、単独でベルギーの地でドイツと戦う方針を貫いた。
1916年には、この方針をめぐり文民政府と対立した。あくまで連合国の一員となることを拒絶するアルベールに支持者はほとんどいなかったといわれる。しかし最終局面ではフォシュの指揮にはいることを受諾し、自らフランダース方面軍を率い、最終攻勢に参加、自国の解放に成功した。
1934年山岳事故により、旧連合国のいずれの軍民にも惜しまれ薨去した。アルベールはドイツ軍の国境突破の知らせを聞き、「ベルギーは道路ではない。国だ。」と叫んだ。この発言はアルベールが連合国軍人のうち最も早くシュリーフェンプランの本質をつかんだことを意味する。戦後、クレマンソーは第1次大戦の原因についてこう語った。「一つだけは確かだ。まさかドイツ人はベルギーがドイツに侵攻したなどとは言わないだろう。」これは重い言葉だ。第1次大戦(ヨーロッパ)は、帝国主義者同士が経済的動機で仲良く始めたのでも、ロシアの動員が原因で始まったのでもない。ドイツがベルギーに侵攻したのが全ての始まりで、ドイツがなぜそうしたのかが第一に問われるべきなのだ。
Cammaerts,E., Albert of Belgium, NewYork,1935
D'Ydewalle, C., Albert and Belgians,NewYork,1935
Galet,E.J., Albert, King of Belgians, in the Great War, Boston,1931
アルベール国王の議会演説(1914年8月4日)