オーストリアの将軍;第1次大戦のスタートに大きな役割を果たした。
退役騎兵将校の子弟として生まれ1871年帝国士官学校を卒業し1870年代後半のバルカン紛争に従軍した。その後陸軍大学教官をつとめ、1903年少将に補せられた。その頃からフェルディナンド大公の知己をて、1906年参謀総長となった。
しかしセルビアとイタリーにたいする予防戦争論を唱えたため、フランツヨゼフ皇帝に忌避され、1911年に解任された。コンラートの主張はリビアに触手を伸ばしたイタリーに単独すなわち三国同盟の枠組みを破壊して、先制攻撃をかけるべきだ、というものだった。
もうすでにここに現れているが、外交にもとづいた戦略的主張にすぎない。これは外相の仕事で、参謀総長の仕事ではない。もちろん敵が早く認識できる、すなわち先制攻撃をかけた方が軍人にはわかりやすいのだが、多くの軍人はその誘惑に耐えて日常業務をこなしているのだ。
その後も同じく、外交的戦略論をとなえ、オーストリア軍の力量を計ることまたは最大限力量を発揮させることに失敗する。要するに外交官か政治家を目指せば良かったのだ。大半の国の軍人の仕事は外交官または首班の失敗の後始末でこれは今でも変わらない。しかし1912年フランツヨゼフ皇帝は新たな参謀総長職、Chief
of General Staff of All Armed Forcesを創設しコンラートを再び迎え入れた。
開戦後は失敗の連続だった。唯一の成功は対イタリーのイソンゾ戦線で防御のまわり、南チロルで攻勢にでたことぐらいだろう。
だがこれもブルシロフ攻勢にあい頓挫してしまう。この攻勢以降ロシア戦線の指揮は完全にドイツに奪われた。
1917年春、カールT世と対立し参謀総長職を解かれ、南チロル軍司令官に転属した。1918年には更に名目的な近衛連隊長に退いた。戦後はインスブルックに隠棲し、回想録をまとめた。

回想録; Aus meiner Dienstzeit、Vienna, 1921-5
Regele,
O.Feldmarschall Conrad, Vienna,1955
Broucek,P.,Ein
General im Zwielicht. Die Erinnerungen Edmund Glaises von Hortenau,
Breslau Verlag, 1980
Ranglisten, des k.u.k.Heeres
1918, Vienna, 1918
Kurt, P.,Conrad von
Hozendorf. Private Aufzeichnungen., Amalthea, 1977
藤由 順子 コンラートの見たバルカン問題
『ベルリン・ウィーン・東京』所収 論創社 1999(現在第1次大戦の政府資料で最も完璧に保存されているのはオーストリア政府のものといわれる。The
Vienna Kriegsarchivと呼ばれるがそれと回想録に直接あたったもの。)