Karl Hapusburg
Kaiser Karl von Osterreich
(1887−1922)
オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇帝;最後の皇帝
最後の戴冠式
サラェボ事件で思いがけなく皇太子となった。開戦時は参謀本部詰であったが、1916年5月第20軍団を率いて、南チロル攻勢に参加した。その後ブルシロフ攻勢で戦線が崩壊したガリシアにむかった。
そこでほぼ全滅した第5軍の再建などに取り組むが、その年11月伯父のフランツヨゼフ帝が薨去し、新皇帝として即位した。しかしカールはガリシアでの敗戦で、戦局は絶望的と判断し分離和平の道を模索する。
フランスに、アルザスロレーヌの返還・南チロルの割譲・ベルギーとセルビアの再建などの条件を出し交渉したが、フランスはドイツとの仲を裂くことにしか眼中になかった。オーストリアが単独和平に応じてもそれだけでは西部戦線の状態は変わらず、フランスの反応は当然だろう。カールはまずドイツと交渉すべきだったのだ。
また国内の改革に手をつけ、連邦制への移行を提案したが、平時でもまとまらない案に戦時で応じるものはなく頓挫した。1918年10月各地の独立諸派をむしろ応援し、自治能力の強化を図った。しかしこれは単純独立と諸国家同士の内紛を煽っただけだった。
カールは比較的開明的な君主として振舞いたかったのか、ドイツ人のオーストリアでは社会民主党に組閣させた。しかしオーストリア社会民主党は友党であるドイツ社会民主党と気脈を通じ、終始ドイツとのアンシュラッセ(統合)を追求した。このためカールの居場所はオーストリアになくなった。だがドイツと異なり、将軍で最後までハプスブルグ家に忠誠を誓うものは多かった。フランツァーバルティン、ダンクルらである。また海軍の潜水艦隊司令トラップも同様で、サウンドオブミュージックに画かれている。彼らはヒトラーのアンシュラッセ(統合)にも抵抗した。カールはどの勢力に依拠すればよかったのか。
1918年11月11日国事行為に携わらないことを宣言したが、退位は避けた。1921年3月と10月、二度にわたり、ハンガリーへの復辟をねらったが失敗した。ポルトガルのマデイラで失意のうち死亡。
皇妃のツィタはブルボン=パルマ家の出身で1911年に結婚した。前述のフランスとの和平工作は、皇妃の兄のジクストゥスを経由したものである。クレマンソーはその経緯を含めて暴露したため。皇妃の立場は苦しくなったという。カールの死後修道院生活に入り、1989年まで存命したという。

Brook-Shepherd, G., The Last Hapusburg、New York, 1968
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