
Wilhelm U, Friedrich Wilhelm Victor Albert Hohenzollern
Kaiser Wilhelm von Deutschland und Konig von Preussen
(1859-1941)ドイツの皇帝;連合国から、第一の敵とみなされた。
ホーエンツォレルン家の正嫡として生まれた。母方ではビクトリア女王の孫に当たる。出生時の医師の不手際から、左手が不具だった。また中耳炎にもかかり耳が遠かった。10歳で少尉に任官し、12歳のとき馬上で普仏戦争勝利のベルリンにおけるパレードに参加している。父フリードリッヒ・ウィルヘルムが99日間、皇帝位についたあと急薨すると、29歳で1888年、皇帝になった。それまでに受けた教育は軍事が中心で十分ではなかったといわれる。
2年後、ドイツのフリーハンド確保のため、ビスマルクを解任し、独自の外交政策を進めたとされる。しかし実際のところ、政策は官僚の手で準備されており、おおかれすくなかれそれに乗っただけだった。人事権だけは掌握していたが、一旦任命すると解任の自由はないケースが多く、一貫した政策を追及した形跡はない。外交政策としてはむしろ対露、対英で宥和政策をとり、友好関係を築きたかったようだ。むしろ宥和政策を実施したくとも側近に止められたといった方がよいだろう。
近代国家における君主制の問題は、独裁より権限の分散の結果、政策の一貫性がかける点にある。アメリカ人はこれを認めないが、各国でみられる現象である。すべての国事行為を一人で行うことは、不可能である。創業の君主はそれでもそれにトライするが、2代目以下は通常権限を委譲する。ウィルヘルム二世も例外ではない。
アガデイール事件であとで有名になった演説、「輝けるよろい」など本人は恥ずかしく最後までいやがった。また1908年デイリーテレグラフ事件で声望を落とし、以降ますます実権を失っていった。第1次大戦の開始時も、一人で破局を回避すべく努力した形跡がある。
戦局が悪化し、ルーデンドルフが最後に精神に不調をきたし和戦の判断を迫られたときも決定的な決断は下せず、参謀本部に追随するだけだった。この時首相はいとこのマックス公だったが、最後まで文民政府を信用することはなかった。1918年11月10日、連合国最終攻勢と同盟国の脱落、水兵の反乱で絶望的な形勢となり、大本営のあったベルギー内スパから直接オランダの亡命した。
1930年、ブルーニング首相は政情安定化のため、ウィルヘルム二世の孫のウィルヘルムをたてることにより君主制の復活を図ろうとした。しかしヒンデンブルグ大統領はあくまでウィルヘルム二世をたてるべきだとしてこの案に反対した。そして本人もこの案に反対し最終的につぶれた。ウィルヘルム二世は最後まで立憲君主の本質がわからなかったらしい。政情の安定のための復辟の必要がわからなかったのだろう。
その後ヒトラーとの奇妙な関係が始まる。当初ウィルヘルム皇太子はじめナチスに入党させその運動を支持する一方、ヒトラーに君主制の復活を期待したらしい。しかしヒトラーの君主制に反対する態度がわかるや、消極的となった。
第2次大戦が始まり、ヒトラーが1940年5月攻勢をかけると、オランダは1週間ももたずドイツ軍に席巻された。チャーチルはウィルヘルム二世にイギリスへの亡命を勧めたが、オランダに止まるといって拒否された。そして1ヶ月後パリが陥落するとプロイセン的修辞にみちた祝電をヒトラーにおくった。これが最後の公式活動となった。
(Anon)The Kaiser’s Memoirs(tr.by Harpers) New York , 1922
回想録;My Memoirs, London,1923
Palmer,A.,The Kaiser:Warlord of the Second Reich,London,1977
Ludwig, Emil, Willhelm Hohenzollern, New York, 1926
Berstein, H., The Willy-Nicky Correspondence being the Secret and Intimate Telegarams between the Kaiser and the Tsar, New York, 1920