第1次大戦開戦時の首相
アルジェリアで生まれた。
1907年からのクレマンソーの連立内閣で内務相をつとめた。
その後、1914年6月ポアンカレにより首相兼外相に指名された。これはカイヨウ首相のスキャンダル問題により急遽登板したものである。
開戦の直前までポアンカレとロシアに親善訪問に出かけていた。それまでビビアニは外交経験が全くなく、ロシアを訪問することにより、知己を得ることが目的だった。ダンケルクに7月29日に戻ったがその日、オーストリアはベオグラードを砲撃しすでにヨーロッパは明白な戦争の危機に覆われていた。
ビビアニはここで重大な決断を下した。ロシアのバルカン政策を支持し、露仏同盟の義務、すなわちドイツ西部国境への動員を実施すると言うのである。
これがどの程度自発的なものであるかは不明だが、シュリーフェンプランによるドイツからの攻撃を覚悟したものと思われる。
その後の外交課題はイギリスを味方につけることであり、これはドイツ軍のベルギー中立侵犯も加わり成功した。それまで、軍部に先に国境を越えさせないことを要求するなど、原理に忠実な姿勢を堅持した。こういった重要な局面ではむしろ職業外交官でない方が判断に適切なことが多い。
しかし開戦後は参謀総長のジョフルを抑えることは出来なかった。これはおそらく誰がやっても同じだろう。戦局の悪化により1915年10月、議会多数が失われ退陣した。ブリアンが首相となったが連立内閣に止まり、法相をつとめた。
休戦後は、国際連盟のフランス初代代表となった。
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