ティサ イシュトバン

Tiszla Istvan(Stephen)
Ennobled as Count(Graf) by Imperial Order

(1861-1918)

ハンガリーの政治家;開戦時のハンガリーの首相

カルマン・ティサ首相の子息として生まれた。父親と同様に自由党の所属し、1903年に首相となった。1905年一度地位を譲ったが、再び1913年組閣した。

サラェボ事件ではベルヒトルト外相の予防戦争論を抑える側に回ったが、コンラートを筆頭に開戦論が強く最後は妥協するに至った。大戦期間中もハンガリー首相だったが、ハンガリー国内にはハプスブルグ帝国の延命だけを目的とする戦争だとして批判論が根強かった。

このため再三辞意を漏らすが受け入れられず、1917年5月カールT世によってようやく認められた。ウィーンでは食料等を優先してハンガリーに回す政策が不人気だったという。

1918年10月31日、共産主義を主張する暴徒に殺害された。逃亡を勧められたが拒否したという。


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