日本の第1次大戦中の外相、子爵
千葉県茂原市真名で生まれた。東大卒業後、外交官任用試験に合格し、外務官僚としてのステップに昇る。
1900年北京に駐在し、義和団の乱(北清事変)に遭遇する。暴徒に6ヶ月包囲され、他国の外交官とともに銃をとり戦った(本人の言によると筐底に蔵したる正宗の一振り)。最後に日本軍・第五師団を中軸とする多国籍軍に救出された。
日露戦争後、桂・西園寺両内閣の外務次官を務め、小村寿太郎の病疾のあと職業外交官としての第1人者となった。大戦勃発時は駐仏大使。
1915年、大隈改造内閣で外務大臣となった。1917年アメリカ大使となり、上下両院で満座をうならせる演説を敢行し、自身の名前が冠せられる石井ーランシング協定の締結に成功した。内容は3点あり、アメリカ太平洋艦隊の大西洋移動に伴う、東部太平洋の日本海軍による護衛任務の引き受け、アメリカの対中政策である門戸開放、機会均等について日本の支持、およびアメリカの日本の中国に於ける既得特別権益の擁護、を合意したものだった。
ただ内容について中国の領域が明らかでない(満州が含まれるかどうか)ことと、日本の既得権益が何を指すか、政治権益か経済権益かがはっきりしなかった。これは当時両者ともはっきりさせたくなかったのだろう。日本からみれば中国に満州は含まれず、アメリカの言う機会均等・門戸開放には含まれないことになる。一方、アメリカは日本の特殊権益は経済的なものに限定され、政治的な干渉は含まれないと解した。
ところが、当時外務省支那通と陸軍の間で段祺瑞政権応援の機運があり辛亥革命後の中国領土について深く考慮することなく、満州が中国領土であることを段祺瑞におみやげの積もりで認めてしまっていた。これは現在にも尾を引く致命的な失敗となった。
石井はこの時すでに中国(袁世凱)領土の清国との一体性について疑問を呈しており、先見性のある外交官だったことがわかる。この後も中国(国民)の中華思想による近代外交ルール無視について警告を発し続けた。ただ、親米・親英仏は変わらない信念だった。
第2次南京事件の外交処理
その後、外務省は満州事変に際し、前言と矛盾する形で再び満州が中国領土ではないことを国際連盟で主張した。これは国際法に通暁したリットン調査団の受け入れる所とならなかった。国民世論が(リットン調査団の)「認識不足」という国際法の半可通的ミスリードに従うなか、松岡洋右の英語演説はいずれの国の支持を得ることができず失敗、国際連盟脱退の結果となった。石井のアメリカ上下両院での議会演説の成功と比較し興味深い。
石井ーランシング協定は、その後ワシントン軍縮会議で包括的に日米の了解の範囲にすぎないとして、実質廃棄された。これも外務省=幣原喜重郎の失敗である。本来もの事をいいかげんに処理せず、第1次大戦で日本海軍が払った代価である、アメリカの日本権益是認の内容をたとえ経済権益にすぎないとしても明確にすべきだった。あいまいな処理で相手国の機嫌を取り結ぼうとする幣原外交の始まりで、ハルノートを終末点とする日米誤解のもととなった。
1920年から1927年まで駐仏大使をつとめ、国際連盟理事会日本代表も兼ねた。その後、日本における国際連盟協会会長をつとめ、貴族院議員・枢密顧問。
石井は1939年9月26日、枢密院会議で次のように日独同盟に反対した。
「歴史の教えるところでは、ドイツはもっとも悪しき同盟国で、この国と同盟した国家はすべて災難を蒙っている。ビスマルクは、かって、同盟には騎馬武者と馬とがある、といったが、事実ドイツが同盟していたトルコやオーストリアに対しては、馬のように扱った。またヒトラーは、条約などは紙切れ一枚と同じにみていることは、防共協定があるのに、独ソ不可侵条約を結んだことでも明白である」
石井は第1次大戦の時アメリカ上下両院の演説で、ドイツは英白の永世中立の保証条約を「紙切れ1枚」と言ったべーマン・ホルベーク首相の言辞を引用しているが、ここでも同様である。また日本では評価する向きもあるビスマルクの外交が、決して国家相互の善意に基づいたものではないことを正しく見抜いている。この時、政権を左右していた、広田・松岡・東郷より見識が相当に上だったことがわかる。
だからと言って石井は今日的な意味の平和主義者ではない。合法権益についてはあくまでも守り抜く覚悟があり、その意味では国家主義者でもある。外交官は全て国家主義者でなければ有能とは言われない。しかし併せて、世界平和への責任とわが国の立脚する啓蒙主義(自由・民主・平等)の信念を持たねば、それはただの国粋主義に転落する。その意味で石井はこの時期最後の立派な外交官だった。
そして、日本の国益としても初めて西半球以外の場所でアメリカに不承認政策を棄てさせた石井の功績は不朽だろう。1945年5月東京空襲のおり、死亡した。

自著:『外交余禄』 岩波書店 1930
『石井菊次郎遺稿 外交随想』 鹿島研究所出版会 1967
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1926年の国際連盟常任理事国増加問題