ベラ
ウィトゲンシュタインも同じく、戦争によって、国民であることを発見したのでしょうか。ウィトゲンシュタインもイギリス的な経験論というより、大本にはドイツ観念論があり、すると何か規範がなければ、そういった考え方をしないのではないでしょうか。
別宮
友人のビンセントは、論理学とは経験論であって、観念論ではない、すなわちトートロジー(同義反復)からだけでは、論理学にならないと批判しています。
ただ、この言い方自体が経験論なので、ビンセントはバートランド・ラッセルを例証としていますが、反論となるか疑問です。
ただ、ウィトゲンシュタインはクラウゼビッツのような粗野なドイツ観念論、すなわち、真理は恒にある定理から導かれるべきだなどとは、主張していません。ある世界がそう表現されることができると言っているわけです。ですから、世界が必然的に動く、例えばヘーゲルやマルクスのような歴史必然論も同じく否定できるわけです。
国民だということは、その国が勝つという意味ではなくて、義務として従軍することが、その状態だと言うことでしょう。
ベラ
ではウィトゲンシュタインは、逆に道徳的なこと、義務以外の面は知らなかったということですか?
別宮
それが20世紀の人間ということでしょう。つまりヘーゲルやマルクスは、人間を動物的側面、「食べる」「給料をもらう」「安全に暮らせる」からしか理解しなかったわけです。
つまりマルクスは労働者が食べるのに困って革命を引き起こすと考えました。ところがウィトゲンシュタインはそういった動物的側面には無頓着であり、ブルシロフ攻勢で初めてそれに気づいた自分に驚いています。
「昨日私は砲撃をうけた。私はおびえた!私は死の恐怖でおびえた。いま私は行きようとする欲望がある。生を一度受けたら、それを放棄することは難しい。これがまさに『罪』であり、非理性的な生であり、間違った人生観だ。私はときおり動物になる。このとき食べること、飲むこと、眠ること以外の何も考えない。恐ろしいことだ!それにこの時、私はまた動物のように、内的に救済の可能性がなく、苦しむ。この時私は情欲と嫌悪に身をゆだねている。この時真の生を考えることができないのだ」
ウィトゲンシュタインは、動物的な人間となりうることを発見しましたが、それでも動物的に生きることを否定しています。
ベラ
ウィトゲンシュタイン家は金持ちですし、そのように育ったことは事実だと思います。ですが周囲はどうだったでしょうか。
別宮
マルクスのように、金だ、食べ物しかないと周囲を決め付ける自信はありません。ウィトゲンシュタインの周囲はそういったウィトゲンシュタインをどう見たかですね。戦場ではそれは戦争への勇気でしかありません。
なぜならば、それがなければ周囲はウィトゲンシュタインを無視することになるでしょう。
ベラ
周囲はどのように反応したのでしょうか。