ウィトゲンシュタインと1917年春の攻勢

ベラ
1917年春は中央同盟諸国にとって、もっとも明るい時だったんでしょうか。

別宮
その通りです。1916年後半はいわば連合国大攻勢の秋でした。前半はドイツがベルダンで、オーストリアが南チロルで攻勢に出たのですが、とても成功とはいえません。ところが夏、ソンムやブルシロフ攻勢は、力のある連合国の反撃にみえました。

戦果という点で、ソンムは失敗、ブルシロフ攻勢は成功でしたが、両方とも中央同盟諸国は冬までに戦線を安定させることに成功しました。

そして、ドイツは無制限潜水艦戦の再開を宣言し、それだけでイギリスを屈服させることができると踏んだわけです。

一方1917年、5月、連合軍はニベル攻勢をやって失敗、更には7月、東部戦線でケレンスキー攻勢に出ました。

ベラ
この戦いに、ウィトゲンシュタインは参加したわけですね。

別宮
もちろんです。

ケンレンスキー攻勢のさいは、レディツィアニに守備にあたり、ロシア軍の攻勢を跳ね返し、更にその後の攻勢では、そこからプルト河に沿って前進、チェツノウィッツに達しました。

これによって、オーストリア=ハンガリーは開戦以来初めて、ガリシア全域の回復に成功しました。

ウィトゲンシュタインは、この戦いで准士官として、弾着観測員をやりましたが、その功績で、銀勲章を受賞しています。

ベラ
その後、ロシア軍は組織的抵抗ができなくなったわけですね。

別宮
よくそう言われるのですが、当面の東部戦線にいたロシア兵が戦意を喪失した証拠はありません。防御であれば、塹壕にこもるわけですから、小銃だけで戦闘力を発揮することはできます。

ウィトゲンシュタインもチェルノウィッツ周辺の野砲陣地の構築に忙しかったようです。本格的はロシア軍の崩壊は、共産革命以降でしょう。

ベラ
するとやることがなくなったのは11月以降ですね。

別宮
そうです。オーストリアはウクライナに侵攻しましたが、実際のところ歩兵部隊が鉄道に乗り込み地方の役所を訪問するようなことで、ウィトゲンシュタインの出番はなかったようです。

結果として、その冬は『論考』の哲学的見解を整理したようです。タイプ原稿はこの冬に大部分できました。

ベラ
戦いの僅かな間隙に哲学的思考をするというのは得がたい経験ですね。

別宮
そういった思索を、3月3日のイタリア戦線への移動まで続けることになります。