シュリーフェンプランはなぜ失敗したか(その5;イールドフランス)


マーニャ
前回まで、マルヌ会戦ではドイツ軍の兵站、索敵、兵力の集中に問題があったという結論になりましたが、一方で英仏軍の回復も見事ですね。ドイツ軍の疲労はどうでしょうか。

別宮
決戦方面となった地域は、イールドフランスと呼ばれるフランスでも屈指の富裕な地帯です。このあたりにはパリ市民の別荘が散在していました。英仏軍の兵士は別荘で歓待されまた10数日振りに風呂にはいり衣服も洗濯することができて生き返ったと言います。

イールドフランスで休憩をとるBEF兵士
手前の三人の兵士に寄り添う女性に注意して欲しい。
この時イギリス軍は教養のある字の書ける女性を集め、文盲の兵士のために便宜を図った。
これだけの敗軍にもかかわらず兵站は完璧に近かった。

実際は持ち主は逃亡していて使用人がいてかってに使えとなったらしいですが、イギリス軍は将校が持ち主宛てまたは自治体の代表に軍用帳票に徴発内容とサインをしたものを発行し、あとで対価を支払ったようです。

これらの好条件はドイツ軍にはありません。ただ記録として残っているのはドイツ軍兵士には大量のワインが支給されたという事実です。あるフランスの婦人の記録によれば全員略奪したワインで酩酊していたとなります。しかし、服装もきちんとしていて好青年が多かったという記述もあり真相はわかりません。ただ8月後半のイールドフランスは、ブランデンブルグより炎暑で、ドイツ兵は消耗したといわれます。

兵士の疲れという要素は判定が難しいのですが、最も長距離の行軍をこなしたクルックの第1軍が、9月6日以降の決戦で機敏な動きを見せており決定的な影響はなかったとも思われます。

マーニャ
すると両軍にチャンスがあったのでしょうか。

別宮
9月5日の時点でドイツ軍がシュリーフェンプラン(改)を原案のまま遂行することは自殺行為です。つまりパリ軍(モーヌーリ)が予備第4軍団を撃破するのは時間の問題です。その後残りの3個軍団は背後をつかれ進退窮まるでしょう。クルックが対処した方法しかありません。その時点でドイツのシュリーフェンプラン成功による短期戦勝利の目は潰えました。

それでは8月30日ではどうかと言えば、小モルトケの作戦、クルックの一時停止を実行すればなんとも言えません。ただ、ビューロウとハウゼンの軍が果たして踏みとどまれたかですね。公算としては史実にあったようにデスパレフォシュに対抗できなかったのではないですか。すなわちこの8月30日の時点でドイツ軍は戦略的に敗れていたのです。数で負け、敵情が把握できない、または敵情判断を誤った状態で勝利することは難しいですね。

ドイツ軍に勝機があるとすれば、それより前でしょう。

ただどうみてもシュリーフェンプランの基礎概念が誤っている気がするのです。

両軍は数で拮抗していますから、もし数十万人の単位、すなわち1個軍を殲滅できれば数量で不均衡が生じ短期戦勝利が期待できたはずです。殲滅するためには機動戦ですから包囲しかありません。包囲となると敵が突進して来たときが絶好の機会を提供してくれます。

この包囲の機会はフランス第5軍(ランレザック)がシャルルロアでドイツ第1軍の一部と第2軍に突撃したとき、またドイツ第1軍(クルック)が独断専行してマルヌ川を大きく突破したときが両軍にとり最大だったでしょう。両方ともランレザックとクルックの撤退行動が見事で虎口を脱しました。

マーニャ
すると両軍とも短期戦勝利寸前まではいったのですね。

別宮
ドイツ人の方がよく喋るため、ランレザックを追い詰めたことは知られていますがクルックの危機脱出は見逃されています。ここは日本軍の無名観戦子の評論が正しいと思います。というのは相手が大軍をもって包囲戦術に出たとき防御側のとる定石は最先端部分をUの字のように逆包囲することです。逆包囲された部隊は中央から一番遠いため援兵が受けられません。

定石に従えばシュリーフェンプランを挫折させるためには、最先端のドイツ第1軍を標的にしなければなりません。ガリエニのパリ軍による側面攻撃はまさにそれです。第1軍にたいする背後からの攻撃がたまたま位置関係からBEFとなったのが観戦子の言うように残念ですね。ジョフルは第5軍(フォシュ)にも第1軍への攻撃命令を出しますが、1個軍団が抽出できたのが一杯でした。またここまで頑張るフランスならばこの時パリにいた後備4個師団を前線に投入する手もあった気がします。全員40歳以上の老兵だったようですが。

第2次大戦でソ連軍はこれと同じ先端包囲をスターリングラードで成功させました。日露戦争の奉天会戦では日本軍の児玉源太郎は始めに鴨緑江軍で敵の最左翼を包囲すると見せかけて、相手に兵力を両翼に分散させ中央突破を成功させました。こうなるとアートですね。

奉天の例は包囲と言う用語自体は機動戦における行動そのものを説明するだけで、実際には敵野戦軍司令官をして敗北つまり後方との連絡が断たれると思い込ませることが重要なことを示しています。

マーニャ
マルヌ直前となれば、決戦方面で英仏軍優勢ですからドイツ軍に勝機が乏しいのはわかりますが、これを避けることはできたでしょうか。

別宮
フランス軍の第2次集中以前に一部を包囲殲滅するしかありません。元々シュリーフェンの原案はフランス全軍をロレーヌに追い込んで殲滅することです。しかし、この方針は実戦を考慮すると極めて奇妙です。というのは、何も全軍を狙わなくとも一部でも殲滅すれば拮抗している兵力バランスが崩れますから実はほぼ決定的な勝利です。勝利とならないのは相手の国土が広くかつ人口大国であることです。フランスはその条件にありません。

フランスは人口大国でもなければ国土に縦深性もないですから、確実に一部を包囲殲滅できる情況を作ればよいのです。すると決戦方面で兵力が上回っていること、また敵が攻撃して来ることが条件です。すると緒戦しかあてはまりません。すなわちフランス軍の一部を分断すればよいのです。

ところがシュリーフェンプランは逆時計周りでフランスに侵攻しましたから緒戦で部分的勝利を収めても内陸にフランス軍を押すだけです。第2次大戦のヒトラーの黄色い計画のように、時計周りで侵攻すれば壁として海が利用できますから、フランス軍の分断がより簡単だったと思われます。

このためには攻撃幅確保のため横隊攻撃という方法を捨てる必要があります。その時、浸透戦術は発見されていませんでしたから、むしろ車懸り(前進させる部隊と直協部隊を交互に入れ返る)で前進したほうがよかったかもしれません。すると軍間隔があき側面に不安が生じます。しかし、第1次大戦時点では徒歩以上のスピードでの歩兵の前進は不可能ですから縦隊行軍中の向きを変更することは困難ではありません。ただ弱点には違いありません。当時の概念の縦隊攻撃ではフランスの鉄道網を考慮すれば背後をとられ必敗ですから、横隊攻撃の改良しかないのです。最もフランスと異なりドイツ流軍学ではこういった歩兵マニュアルの改善は作戦立案より順位が低かったようです。

マーニャ
しかしそれではシュリーフェンの他の要素、90日間で東プロイセンにとって返すが成り立ちませんね。

別宮
確かにそうです。ただシュリーフェンは東プロイセンを当初捨てる気だったのです。実際は捨てられませんでしたが。

東プロイセンを捨てるのであれば、ウィスチュラ川での防衛戦ですね。それであれば現役師団は必要ないでしょう。また敗色が濃くなれば、遅滞戦術で臨むこともできます。もしロシア軍が側面への警戒を怠れば、鉄道を利して背後から急襲できます。要するにドイツ全後備師団を向かわせれば4ヶ月や5ヶ月の時間は稼げます。そして戦略的にはベルリンが陥落してもドイツはまだ粘れます。

更に、当初90日の計算は、ロシアの動員が遅延するとみていたわけです。ところが予想外にロシア軍の東プロイセンへの侵攻が早かったので慌てたわけです。ところがタンネンベルグで勝利した第8軍のホフマンらは事前にそれを予想していました。つまりホフマンは日露戦争の観戦武官(この時、英独は両方に観戦武官を送っていた。)だったようにロシア畑ですが、ロシア軍の手のうちは熟知していたのです。

それでもドイツ参謀本部は古いコンセプトのシュリーフェンプランに固執しました。現在より科学技術の発展は遅かったかもしれませんが、先行案の作成が1897年ですから、日露戦争の戦訓も生かされない机上だけの計画です。

マーニャ
それでもフランスのプラン17より良かったと言われています。

別宮
その通りです。軍事作戦としてみれば。ただプラン17とシュリーフェンプランは性格が違います。プラン17の基本は総動員プラス集中計画です。すなわちフランスにとり前線は一つしか予想できないわけです。つまり独仏共通国境です。当然ドイツによるベルギーの中立侵犯は予想できたのですが、いずれにしてもベルギー領内通過に時間がかかりますしまたベルギーは事前のフランス軍の領内配置を拒絶していましたから、開戦時に仏白国境に軍を配置することは意味がありません。独仏共通国境への配置がまず基本となりました。

結論を言えばプラン17はその内容に問題があるというより、フランス参謀本部がドイツ軍の予備軍団使用による兵力増大を見とおせなかったこと、およびその攻撃精神です。攻撃しないかぎり勝利はない、という基本思考に問題がありました。

確かに、プラン17ではドイツの要塞地帯に劣後した兵力で攻撃をかけましたから必敗です。ただ攻撃をどこかにかけねばならないとすれば、これしかないのかもしれません。

旧軍は横1線に並んだ作戦重点がない計画だったと批判します。しかし作戦重点に重きを置くドイツ流軍学は正しいのでしょうか。第2次大戦のフランス軍の布陣は、旧軍の批判の通りです。戦略予備を結果的に設けず、前回と同じく古いシュリーフェンプランにヒトラーが従うと考えたことは誤断でしょう。しかしまず敵情把握してから主攻撃に出るという考えは、外交やその後の柔軟性を念頭に入れた場合妥当なものではないでしょうか。

またAJPテーラーなどはプラン17とジョフルがフランス北部地域をドイツに引き渡すことになった、と批判しました。しかしドイツがベルギーの中立侵犯に出たら、ドイツ軍の進撃を簡単に防げません。もし防ごうとして仏白国境に中途半端な軍を集中させれば悪夢の包囲殲滅の憂き目にあった可能性が強いのです。また中立侵犯がなければイギリスの参戦は望めませんでした。

シュリーフェンプランとプラン17を比較する場合それらを総合的に考える必要があるでしょう。