ニミッツ
戦争の前提として選民意識をあげましたが、アジアの戦争でもそれはあるのでしょうか。別宮
東アジアで選民意識をもったのはかつては中国人(漢民族)だけだったようです。東アジアがヨーロッパと違うのは各民族が均衡せず中国人が人口で圧倒的なことです。当然中国人は儒教などで古代から選民意識を表現しました。ところが日本人は軍事力で中国大陸で優越すると従来漢民族を征服した諸族と違った行動を選んだように見えました。
というのは従来も中国人(漢民族)を圧倒した民族は数多くありました。ところがモンゴル族を除き皆、中国本土内では儒教をとりいれよりよい中国人になろうとしました。またモンゴル族は漢民族を北部で大量殺戮したほか、蛮子として政府機構への参加を認めず、接触を避ける方針で臨み事実上交流はありませんでした。
ところが日本人は中国人に漢字(言うまでもないが現代中国でも漢字は漢字と言い、民族名は漢民族である。両方とも日本人の命名である。)を使用して科学技術を伝達しはじめたのです。実際は伝達しようとしたのではなく日本人は科学技術を漢字で表現しました。
これは当然のようでなかなか発生しないことです。つまり現在のように日本語に無定義な外来語があれば、カタカナを使う手があります。英語でもイタリア字体斜体で無定義な外来語を表現します。
ところが明治の日本人は漢字にこだわりました。明治人は西洋文化を漢字で表現しようとしただけなのかもしれません。ところが文字表現自体にある種の論理を含みます。例えば、明治の人々は「賛成」とか「反対」という言葉を作っています。これらの言葉は現代中国でもそのまま使われていますが、西洋の文化と直接関係がありません。また翻訳は造語する事と根本的に違います。むしろ造語というのは自国語に新しい要素を加える創造的な仕事です。
英仏独などの言葉は単語で共通する面があります。従って相互に単語を融通することができます。日本人はヨーロッパ文化を自国語で造語しながら表現しようとしたヨーロッパ以外の唯一の民族ではないでしょうか。現在でも科学技術用語はそのまま外国語を取り入れる言語が大半です。また漢字という表意文字がそれを要求したのでしょう。
始め中国では広東省の人々が西洋の言葉を漢字に置き換えましたが、固有名詞が中心でした。また面白い事に中心を自負する北方中国人は広東語による造語より現在でも日本人の造語を好みます。例えば飛行場は広東語では機場(ゲイチョン)ですが北方では日本人の作った空港(ホンガン)が好まれます。同じく広東語でコンピューターは電脳ですが、北方では電子計算機が使われます。そして機場とか電脳は俗語表現として使われています。どうも日本人の造語には重い響きがあるようです。
また明治日本人の造語には日本語にはない四声が考慮されていて発音しにくい第三声の連続などは意図して避けられています。またしばしば古典に語源を求めています。明治の人々の漢字にたいする造詣はものすごいものがあったのですね。現在漢字による造語が衰えるのはやむを得ないでしょう。
また支那文字論争(注)などは表意文字ならではの世界です。現代中国人は支那(シナ、英語ではチャイナ)を音は問題にしませんが文字は好まないようです。しかし日本語でシナと書いては地名としての支那の直接的な印象は半減してしまいます。また現代中国地図でもインドシナ半島は印度支那半島と書いてあるのですから日本人だけに使用禁止を依頼することはおかしく感じられます。ところがこの日本人だけにという点が中国人にとり重大な点で、東アジア選民意識問題の中心です。
(注) この支那という漢字は日本人が発明したものではありません。唐時代頃まで北部インド人は中国を秦の国号からチンと呼んでいました。始めは中国語訳の仏典(仏典というのは法華経を含め、釈迦入滅後数百年間にわたり釈迦説として偽造されてきたもので、紀元後のインド各語による表現が当然出てくる。)で使用されました。これらの事実は江戸時代、富永仲基によって明らかにされています。このインド語(所謂サンスクリットより後の高地ベンガル語と言われるが。)のチンを鳩摩羅什(くまらじゅう)ら旧訳仏典翻訳グループが支那と訳したようです。
鳩摩羅什は5世紀初頭、中国に渡ったインド人で三論宗の祖ですが、個々の漢字の意味についてはそれ程詳しくなかったのでしょう。
ただ、おそらく有史以来明治の人々と鳩摩羅什グループのみが外国人として外来語の漢字化に取り組んだ形跡があります。ただし受容度という点からは明治の人々に軍配があがるようです。
また付言すると現在でも日本の仏教界は旧訳すなわち鳩摩羅什訳を用いています。現在の仏典は表意文字の点からもわかりにくい(サンスクリットの音を表意的に表現しきれていない、見て意味がとれない。当用漢字を知る日本人であれば人民日報の拾い読みが可能ですが仏典は不可能です。)にもかかわらず十数世紀にわたって鳩摩羅什訳が使われているのは不思議です。
また中国と言う略式国名は淵源としては中華民国から来ています。民国という言葉は広東省の人々が作ったもので日本語で言えば共和国に相当します。ところがこの言葉は帝国に対立する言葉で具体的には大清帝国の反語です。そして大清帝国は大日本帝国からとったものです。すなわち中国と支那の言葉上の対立は明治人と鳩摩羅什グループの訳の対立となります。
しかしこの事は中国人に複雑な気持ちを抱かせるとともに日本人のなかで不当な優越感をもたせたと思います。大アジア主義が武力を目的とするものではなく文化を目的とすればよかったのですが、歴史はそういった方向には動きませんでした。
日華事変は陸軍(省)の一部が引き起こし、陸軍以外にいた大アジア主義者がそれを拡大させたと思います。そして、太平洋戦争は開戦理由として日本の開戦詔勅はアジア植民地の解放をあげていますが、それは中国本土での戦いや朝鮮の植民地化をあげれば自信をもってとりあげた大義ではないでしょう。
また誤解してはならないのは、現在の日本で中国人や朝鮮人に法令上で差をつけるべきだと主張する人間はいないと思いますが、戦間期はいたのです。また結婚のときや友人を選ぶ時の、好き嫌いという感情はあまり関係させてはならないでしょう。あくまでも法令上の差(公民権上の)をとりあげたいと思います。
すなわち朝鮮半島と台湾には選挙区が設けられていませんでした。このあたりはイギリスのアイルランド統治より厳しかったのです。
といって戦間期の日本人がただ武断的なことをしたわけではありません。たとえば、文部省の本省で採用された女子師範学校卒業の教員は辞令だけで朝鮮や台湾の小学校・高等小学校に配属されていました。当時それをおかしく感じる人間はいなかったようです。ある意味で教育や産業基盤整備などについては経済観念を度外視したのでしょう。これは現在の海外援助にも通じます。
ニミッツ
日本は植民地統治の経験がなかったためではないですか。別宮
始めはどこの国もそうですね。ただ朝鮮にしても台湾も当時の西ヨーロッパの植民地に比べかなり人口規模が大きかったといえます。第1次大戦前の世界は現在と異なり、熱帯地方に人口は多くありませんでした。ヨーロッパ諸国がもった熱帯植民地はインドを除いて人口小国でした。そして北アメリカやオーストラリアなどは中緯度で人口が希薄ですから移民の対象地で、保護国的な植民地とは異なります。ですから日本が植民地統治で特異な方法をとったのは自然とそうなった面もあります。要するに治安維持・公共投資のコストは現地徴税・通商課税などでカバーしきれないわけです。また総督府に日本の民間人は起用されず全て官界からですから、国策会社のようなものはとにかく民間会社は活躍の余地はあまりありませんでした。
一部、北鮮の金属・電気化学、満州の石炭化学・重機械、樺太の紙パルプがありましたが日本領土プロパーと比較して比重の大きいものではありませんでした。この頃民間会社は対外直接投資として上海に出ていたのです。戦前の最大の商社三井物産は一時期利益の90%を中国の本拠上海支店があげていたと言われます。
ニミッツ
三井物産はなぜ本拠を日本の植民地の大連に置かなかったのですか。別宮
それは単純で為替にしても関税にしても上海は規制がまったくありません。日本向けのヨーロッパからの輸出も一旦上海を通ることが多かったと言います。また日露戦争のとき海軍にロシア、ロジェストウエンスキー艦隊の上海での石炭補充情況を通報した位で、相当に伝統のある支店だったのでしょう。現在は中国(共産)は商社活動を認めていないので、存在しませんが寂しいですね。こういった中国側の恣意的な規制は互恵的な意味で報復すべきではないかとも思うのですが。
不公平な取り扱いを容認すると長期的によいことはありません。新聞社の支局問題がその好例です。どの新聞の支局を設置するか相手国家が決めるなど国際慣習に反します。銀行の人民元取り扱いも同じでしょう。新華社の日本支局を撤退させ中国銀行の支店を撤退させればよいでしょう。中国で中国政府の国際法に反するやり方を認めたのが戦間期の失敗原因です。
しかも現在の政権は国際法に反していることを知っているのです。
ニミッツ
そうですか。大連を自由港にして繁栄させようと言う発想がなかったのですね。
1997年返還前の香港に似ていますね。返還後、規制が増えた香港もダメになると予想するムキもありますが。
別宮
それでも対中窓口という点で香港は生き続けると思いますよ。インターナショナルなものは難しいですが。まだ中国本土で外国人が快適に生活できる環境にはありませんから。ニミッツ
それでは現在の香港とかっての上海は似た境遇にあるということですか。別宮
現在の香港は戦間期の上海より治安も衛生もはるかによいと思います。ただ中国貿易そのものの性格が変化しています。戦間期に中国は茶と生糸という優越的な製品がありました。現在の中国にそういった他国との競争力といった点で圧倒的なものはありません。また中国自体は自給自足がある程度可能な国ですから高度な工業製品以外は輸入品をもちません。したがって現在の中国は貿易相手として見る限り魅力のある相手ではありません。ところが戦間期はあきらかに違っていたのです。またこれは20世紀前半だけに起きた可能性があります。というのは徳川期の日本の中国(清)からの輸入品は絹織物と書籍程度で微々たるものであり、大幅に日本の輸出超過でした。気候が許せば茶にしても生糸にしても労働集約的な生産物だったのですね。
その意味で戦間期の上海というより中国は魅力のある国だったのです。現在、イギリスでも日本でも戦間期に中国に出ていた企業で有力なものが残っています。大阪の十大紡(現在こういった用語が残っているかはともかく)はかっての在華紡の名残でしょう。在華紡は中国内本拠を、日本の植民地の関東州ではなく、上海に置いていました。現在、上海や天津にある国営繊維工廠はその時の名残です。
在華紡自体は当時の低人件費狙いだったのでしょうが、現在の日本企業の中国内の工場もほとんどそれで、変化に乏しいですね。またこういった進出方法は、対象国を変えることが簡単で相手国に資することがあまりありません。また技術の移転などは期待できません。
もともと貿易や金融以外で他国に進出することは製品やサービスで世界的に優れたものがないと難しいということでしょう。
これらの事実により資本進出(直接投資)と対外軍事行動は関係がないことがわかります。また貿易の拡大はむしろ戦争の防止に向かいます。
そして、武力紛争は被進出国が無償で直接投資資産を没収しようとする時発生します。この場合、無償で没収しようとする国に問題があります。第2次大戦後、この問題が起きました。原因はアメリカの対中政策にあります。すなわち、当時日本の中国における資産は軍事物資だけで大量に昇っており、また満州その他私有財産も膨大なものでした。ただし、これは日本標準です。アメリカ標準から見れば大きなものではありません。
第1次大戦の終戦処理をアメリカは失敗とみなしましたから、原則として無賠償・無併合の精神で敗戦国、日独に臨みました。ところが、貧しい中国のような国は日本に請求権を持つべきだと考え、民間と公的双方の日本の在中資産を無償で中国(国民)に与えたのです。すなわち日本の対中賠償と言うのは、アメリカ・中国(国民)との間で終了しており、中国(国民)の継承国家である中国(共産)も認めなければいけないものです。満鉄の株式の時価総額は当時の国家予算の4分の1であり、これはワイマール共和国の賠償支払いと同比率です。
そして共産党が全土を席巻すると、とくにイギリスの私有財産の没収を始めたのです。この方法についてアメリカは異議を挟みませんでした。これはアメリカの致命的な失敗でした。その後イランやエジプトの私有財産の没収についても、ついにアメリカは明確な方針を打ち出せなかったのです。
ところがキューバでカストロが石油精製施設(高額かつ原料もアメリカに依存)を没収したとき、アメリカも世論上反撃せざるを得ないことになりました。この問題は国際法上ははっきりしていて、私有財産の没収は補償を要するのです。これをアメリカが始めに崩したことが混乱を招いているのです。
ニミッツ
中国人にも中華意識というか選民意識は近世にもあるのでしょうか。別宮
現代中国人は中国本土、シナを神州と呼んでいます。これは新聞の旅行案内に用いられるときに多用されているもので、俗語表現に近いものです。そういった素朴な要素はどこの国にも存在します。ただ中国人でユニークなのはその歴史にたいする自負でしょう。日本では総理大臣が神の国と呼んで顰蹙を買いました。中国では神州と呼ぶことにインテリは抵抗があるようで、教養のない人々の呼び名だといって切り捨てますね。
日本の選民意識は倒錯していて、むしろ欧米人にたいするコンプレックスの裏返しな所があります。それだから欧米人に攻撃的ではないとも言えます。それが優越感をもつ中国人に向かったのか、こういった心理的分析は意味のあることと思えませんが。
ニミッツ
すると、戦間期茶や生糸という産物を除けば、日中貿易は縮小傾向にあったのですか。別宮
量は減っていません。ただ石炭や鉄鉱石(当時は製鉄法が進歩せず、鉄鉱石によって品質が左右された。日本の近くではオーストラリアとインドのゴアのものが最良とされるが当時発見されていなかった。このためアメリカからの屑鉄輸入に頼った。この屑鉄問題が開戦原因とする説がある。)も当時輸入していましたが品質に問題があり漸減傾向にありました。戦争、天然資源原因説もルーズベルトが説いたことにより未だに有力ですが、太平洋戦争と湾岸戦争以外は妥当しているように見えません。そして太平洋戦争の真因を確かめれば石油は軍部が開戦したいので強調したのであって、その逆とは思えません。また本当に石油がなければ外交で譲歩し隠密裏に備蓄すればよい話しです。
ただ石油(製品)輸入と軽工業製品輸出という日米貿易が増加しつつあり、その勢いが日中貿易を上回っていました。また当時外国への往来は距離の点で制約されていましたから貿易では総合商社活躍のウェートが高かったようです。戦後財閥解体の指令をうけたとき、旧財閥関係の総合商社社員はあれだけ戦争に批判的であったのになぜだ、という疑問が起こったと言います。
ニミッツ
すると経済要因から日華事変を説明することは難しいですね。別宮
一般的に経済と戦争は無関係でしょう。大恐慌が第2次大戦の遠因だとか原因だとか、マルクス主義者のなかの全般的危機論者が説きますが、歴史学とは無縁でしょう。大恐慌とヒトラーの黄色の作戦(対仏戦)と日本の太平洋戦争緒戦の作戦とどういう関係があるのでしょうか?
また大恐慌がヒトラーを登場させたというのも無理で、NSDAPは1929年春ですでにいくつかの補欠選挙で印象的な勝利を得ていました。経済原因説は犯人をなんとか資本家に結び付けようとする、マルクス(=レーニン)主義者の没論理、架空事実による虚構です。
更に、日華事変と太平洋戦争とは本質的に別の戦争です。この両者を一体にして大東亜戦争と陸軍が名づけてから誤解が始まりました。英仏とも中国にそれ程肩入れしていません。そのうえ、英仏とも日本が満州を除く中国から撤退すれば喜んで、協商(アンタンテ)に応じたでしょう。この時英仏は日本がドイツの側にたつことを恐れていました。アメリカは二正面作戦の危険、またイギリスは、インド植民地及びオーストラリアの離反を考慮していました。両方とも結果的に的中しました。
またマルクス主義歴史学者の対極にある、太平洋戦争ルーズベルト陰謀説もこの脈絡で考えればすぐ否定できるでしょう。またこの論者は独ソ戦の帰趨をルーズベルトはどう見ていたのか、またもしヒトラーがアメリカに宣戦布告しなければどうだったのか、と言う最も重大な設問が落ちています。
ニミッツ
日華事変と太平洋戦争ともに日本が引き起こしたことは軍事作戦の情況から明白ですが、なぜ太平洋戦争開始の前に日華事変を止められなかったのでしょうか。別宮
一つは陸海軍の対立と文民政治家・官僚の失敗とくに外務省の判断ミスでしょう。日華事変を長期化させたのは外務省です。当時の外務官僚は現在と異なり、一番難しいテストを通ったという過剰な自信をもっていたようです。この外交官試験と陸軍大学卒業者が国家を誤らせたのは、儒教政治体制である科挙への警鐘でしょうか。昨今の選挙でも官僚出身者がそれだけで不利なのは選挙民が試験通過者に辟易としていることの現れでしょう。官僚については試験を簡略化して高級官僚の終身雇用体制を変えなければいけません。
試験最優秀の人間を官庁が採用するという時代は終了させた方が良いでしょう。
外交官革新グループの松岡洋右はヒトラーに自分が日本国内で国家社会主義のリーダーになってみせると明言したと言います。この人は欧米派ですね。こういった人間は当時中国を非文明国で後進国だと考えていました。そこに住んでいる人間は野蛮人で支配下に置いても、欧米諸国から非難されることはないと考えていたのです。イタリーがエチオピアを侵略したのとどう違うのか、という事です。
ここに大アジア主義者との決定的な差があります。
しかし大アジア主義者のなかの頭の弱い一部軍人グループには、元々日本人は中国人より数倍優れているという人種主義者がいて、それらの人々と欧米主義者が不思議な野合を遂げた結果が日華事変拡大でしょう。
現在でも中国を旅行すると昔の日本に帰ったようだという年配の方々がいます。また戦間期、兵卒として大陸に渡った人々は「一度大陸に渡ったらせせこましい日本にいられるか。」といって大陸浪人を始めたといいます。気分として国民各層になにか中国熱のようなものがあったのでしょう。当時中南米諸国には移民は自由だったらしいですから、何も混雑している中国を目指す必要はないのですが。当時日本人に不当な優越感があり、それが日華事変拡大の一因をなしたことは否定できません。ただしそれと太平洋戦争の開始とは別です。また日華事変拡大で昭和天皇の果たした役割が未だにはっきりしないのです。
ニミッツ
それでも日華事変の最中に太平洋戦争を二正面戦を覚悟して始めるというのは不思議ですね。別宮
第1次大戦でもそうですが大国として交戦国にならねば、その地位から転落してしまうという恐怖感があったのではないですか。これはしかも本当に論拠のないことでしょうか。それでも気分だけでは開戦の説明にはなりません。太平洋戦争の具体的開戦原因を詳しく当たりましょう。