ウィトゲンシュタイン、イタリア戦線へ

ベラ
1918年に入ると、オーストリア軍は大部分イタリア戦線に移動したのですか?

別宮
ウクライナ方面に3個軍14個軍団を貼り付けていましたが、このうち、時期により異動がありますが、5個軍団ほどをウクライナに駐屯させ、残りはバルカンとイタリアに戻しました。

同時に3月3日にブレストリトウスク条約が発効しましたから、オーストリア・ドイツと共産政権との間に捕虜交換が実施されました。ところが、東欧的というか、ルテニア人などはロシアに腰を落ち着け妻帯などして復員希望を出さない、ポーランド人は部隊編成を解かずロシアに止まり様子をみようとする、チェコ人のようにまとまって連合軍に加わるためウラジオに向かう、など大混乱に陥りました。

ところが、ウクライナ総督に任じられていたグレーナーは、このオーストリアの苦境を理解せず、共産政権に近い行動をとりました。

これがため、ハンガリー人兵士などは正規の捕虜交換に従って復員するとドイツ系住民に何をされるかわからないと思い始めました。このため多くのハンガリー人兵士が復員途上で暴動を起こしたり、反対に赤軍に加わったりしました。

ニコライ二世に直接手をくだしたのもボルシェビキに金で雇われた、元ハンガリー人兵士だった、という説があります。

ベラ
すると、ウィトゲンシュタインは混乱になる前にイタリアに異動したといえますね。

別宮
そうです。ケレンスキー攻勢のあとの独墺軍の反攻はそれほど規模が大きいものではなく、ロシア軍も中部で弱い反攻に出られる程度でした。奇妙なことに、1917年8月から1918年3月まで東部戦線は休戦協定が成立したかのようでした。

ベラ
その間、ウィトゲンシュタインは何をしていたんですか?

別宮
充実していた時期でした。『論理哲学論考』の草稿をまとめたようです。また、フレーゲとエンゲルマンに度々手紙を書いています。そして、1917年冬の休暇ではウィーンの実家に戻り、家の改造を家族から頼まれています。

1918年2月、ウィトゲンシュタインは少尉に任官しました。そして、3月10日に南チロルの山岳砲兵連隊に配属されました。