マーニャ ドイツ海軍は事実上、ビスマルクのころの第一次海軍法、ビューロウが外相のときの1900年の第二次海軍法によって形ができたのですが、1900年ころのドイツ海軍は形をなしてませんでしたね。
別宮 その通りです。世界第七位の海軍でした。ただ造船能力は疑わしく、ドイツ艦を愛好したのは中国人くらいでしょう。鎮遠や定遠はドイツのフルカン造船所でつくられましたが、黄海海戦でカタログ・データのような働きをしたとはいえません。
マーニャ それが第一次大戦では世界第二位にまでのしあがりました。
別宮 現在の人がもう忘れてしまったことがあります。それは汽船とは、当時、石炭で動かしていたんです。これが厄介で、また燃焼効率が悪く、戦艦の航続距離は1500海里ほどしかなかったのです。つまり、汽船はあちこちを寄港しながら長距離を移動したんです。
商業海運であれば、どこの国にも立ち寄ることができますが、軍艦となれば、戦争になると、おいそれとはいきません。そして、海外植民地防衛となると、汽船は必須です。熱帯植民地はだいたい港湾植民地にすぎません。港湾周辺と奥地鉱山への鉄道が植民地経営の実態です。
すると、植民地防衛の主体は軍艦、とりわけ商業船舶を護衛し、軍隊の兵站を保護する巡洋艦が主体となります。1897年に獲得した膠州湾を念頭において1900年海軍法が制定されたのは容易に想像できます。
マーニャ でも、ドイツは陸軍国ですし、膠州湾のためであれば、戦艦を保有する必要はありません。第二次大戦では潜水艦以外の海軍はないに等しかったですが、あれだけの戦争をやりました。
別宮 ビューロウはカプリビに替わって1902年に首相になりましたが、確固たる外交政策があったように思えません。すなわち、フランス以外に仮想敵国が明白ではなく、つかみどころのない外交方針をとりました。外国人はビューロウを「ウナギ」と呼びましたが、自分でもその政策のことを「ポマード」と呼んでいました。
ただ、一方で独露関税交渉をみると保護貿易主義をとりました。ところが、ドイツ鉄鋼業は1900年にイギリスを抜いています。保護貿易の理由は官僚・軍官僚の供給元であった農場経営者でもあるユンカーと妥協したためでしょう。他方、工業家は鉄や鉄鋼製品の輸出を希望しますから自由貿易を望みます。ビューロウは工業家を満足させるために、国内需要増加=建艦に舵を切ったのです。
そしてこの当時、他のヨーロッパ諸国ではリベラル政党が政権を握っていますが、ドイツではその代わりをなしたのは国家主義勢力でした。いずれにせよ拡張主義を意味する「日の当たる場所を求めて」というのが標語でした。
マーニャ ドイツが海軍国になったとしても、「バルト海の王」でしかありませんよね。それでは、陸の戦いにはなんの影響もありません。ムーン入り江の海戦にしても、無理に海軍を使っている印象です。
別宮 ない方がよかったという戦史家は多いですね。ただキール軍港における水兵の反乱を念頭におくのかもしれませんが。
マーニャ それでは結果論ですが、鉄工所組合・造船所組合が政府に要望したくらいで国論は動くのででょうか?
別宮 ティルピッツは「大海軍は(イギリスのように)ドイツの育ちがよい"ebenburtig"ところを示すために必要だ」と語っています。ベートマン=ホルベークも「海軍は帝国の偉大さを示すためのものだ」としており、要は「ドイツ帝国」の存在証明です。陸軍はプロイセンなりユンカーが発祥ですが、海軍は帝国そのものだったのです。
1902年、ウィルヘルム二世はニコライ二世に「君は太平洋の提督たれ!大西洋の提督が要請する」と海軍演習参観のあと宣言しています。「太平洋の提督」は現実の問題でしたが、「大西洋の提督」はまったく架空です。