マーニャ ビューロウの「世界政策」や「大海軍」に反対する勢力はあったのでしょうか?
別宮 ありました。それはユンカーであり、政治勢力としては農民党です。そして、現在のドイツは社会民主党(SPD)とキリスト教民主同盟(CDU)お二大政党制のような外見をみせていますが、第2帝政ドイツからワイマール期にかけては小党分立でした。
階級政党、地域政党、宗教政党が入り乱れており、憲法規定は、首相は皇帝にのみ責任を負う超然内閣を可としていました。さらにいえば、明治憲法下の日本でも超然内閣はあったのですが、政党党首が首相である必要はありませんが、予算通過にあたって議会多数の支持は必要でした。
昭和期の陸相は政党嫌いを公言しましたが、これは軍官僚の互選によって、陸相は選ばれるべきだという仲間内の約束を主張したものに過ぎません。そして、現在の日本でも官僚トップの事務次官は内部互選で選ばれるべきだという暴論を吐く官僚があとをたちません。したがって、こういった官僚独裁は日本的特質というべきで、第2帝政ドイツでもここまでひどくはありませんでした。
マーニャ ではドイツでは首相は誰が選んでいたのでしょうか?
別宮 それは皇帝ウィルヘルム二世です。その結果として超然ですが、議会運営は避けることができません。これは明治時代の超然内閣が結局常に行き詰まり、伊藤博文が政党を創始したのと同じ現象です。
すなわち、明治以降、日本は議員内閣制をとる方向に向いましたが、ドイツは全く向わずに、1918年の第一次大戦の敗北を迎えてしまったのです。そして昭和期の超然内閣は立憲政治からの逸脱というべきでしょう。
マーニャ でも、外交にいては「キャビネット・ディプロマシー」、すなわち内局外交のようでした。
別宮 その通りです。日露戦争や第1回モロッコ危機を引き起こしたのは外務省という組織であり、象徴的存在はホルシュタインです。
マーニャ でも、これは失敗でしたよね。
別宮 ビスマルクは「小ドイツ政策」であって、ヨーロッパ諸国の間にたつことによって、仲介外交を成功させました。
露土戦争講和のベルリン会議が好例でしょう。ただし、あらゆる仲介外交に実効性をもたせるものは、じつは軍事力です。ドイツと英仏が連合することによる軍事的脅威によって、ロシアは譲歩するしかなかったのです。そして、ベルリン会議が終了するとロシアは対英という点で、ドイツに接近したのです。
ところが、第一回モロッコ危機で、仏外相デルカッセを首にすることには成功しましたが、そのあとのアルジェシラス会議では全く違うことが起きました。すなわち、ドイツは孤立してしまったのです。これはビューロウの大きな失点でした。
フランスはベルリン会議のときのロシアと異なり、ドイツに接近しなかったのです。
マーニャ でもそのとき、ビューロウは失脚していません。
別宮 その通りで二年後のデイリー・テレグラフ事件では、ウィルヘルム二世に「憲法規定に従う」といわせしめ、政治から遠ざけることにも成功しました。
マーニャ その直後ですね。失脚したのは・・・。
別宮 直接原因は相続税の導入で、これにユンカーが反対したのです。