ベラ そうすると、ウィトゲンシュタインは、1918年の4月から9月まではウィーンにいたわけですね。
別宮 その通りです。多くの時間を『論考』の完成にあてました。そして、ウィーンの出版社ヤホダ社に原稿をおくりましたが、前線に出たあとの10月22日、出版を断られています。
ベラ またどうしてでしょうか?
別宮 「技術的な理由」というだけのようです。真相は今もってわかりません。
ベラ そうですか。でも落胆したでしょうね。
別宮 それがそのとき、オーストリア軍は末期症状に入っておりまして、各部隊は出身地への帰還を急いでいました。じっさいのところ踏みとどまっていたのはドイツ人だけだったようです。このころ兄のクルトは自分の部隊から脱走が相次いだため拳銃自殺を遂げています。
ベラ すぐ連絡は行かなかったでしょうが、ウィトゲンシュタインにはこたえたでしょうね。
別宮 残念ながら、この自分についての心境を語った記録はありません。11月4日、休戦協定を結んだつもりのオーストリア軍にイタリア軍は突然襲い掛かります。そして、30万人の捕虜を得ました。これが、ビットリオ・ベネトーの戦いです。この捕虜の中の一人にウィトゲンシュタインがいました。
ベラ それは、厳しいですね。
別宮 休戦協定後の攻撃というのはよくあることです。1945年9月のソ連軍の満州侵攻に伴う抑留も同様でしょう。ハーグ陸戦協定によって休戦協定と同時に復員は可能ですから、退却作戦を平時から立案すべきでしょう。その意味で、1918年のドイツ軍の旋回退却は見事な例でしょう。
また、1945年の日本軍の内地にいた陸軍部隊はわずか1ヶ月半で兵士を全員復員させています。満州の場合、関東軍参謀にも問題があったというべきでしょう。
ベラ ウィトゲンシュタインは結局いつまで抑留させていたのですか?
別宮 1919年8月12日までです。1年未満であって、イタリアはソ連ほど品性が劣る国ではありませんでした。ただ、イタリアは捕虜に労役を課さず、また捕虜賠償について相互放棄していますから、何のため抑留したかわかりませんね。多分、カポレットー敗戦に伴う捕虜と数を合わせたかったんでしょうか。
ベラ では、ウィトゲンシュタインは何もやることがなかった?
別宮 初めコモ、それからカッシーノの捕虜収容所に移ったのですが、彫刻家のミヒャエル・ドロービルと教師のルートウィッヒ・ヘンゼルと友人になりました。
初め、ドロービルはウィトゲンシュタインのみすぼらしい服と控えめな態度から、貧乏な家庭出身と思ったそうです。そしてあるとき、クリムトの肖像画について話が及び、ウィトゲンシュタインが「それは私の姉の肖像だ」といったそうです。ドロービルは信じられない目つきで、じっとみて「それでは君はウィトゲンシュタイン家の一人かい」と絶句したそうです。
ヘンゼルからは教師になるための訓練をうけたそうです。でも内容は一緒にカントの『純粋理性哲学批判』を読むことだったそうです。